ブロードウェイの起源 1842年~

最初のミュージカルと言われているThe Black Crook「黒い悪魔」(1866年公演)

1842年に建てられたVictoria Theatreがはじまり

現在の劇場街は民家と農場が並ぶのどかな地区でした。
1842年に劇場事業家だったオスカー・ハマースタインが、42丁目と7番街の場所に1000の座席を持つ「ビクトリア劇場(Victoria Theatre)」を建てたのが、現劇場街の最初の劇場だったと言われています。(1915年に閉場)もともとは正統な劇場として作られましたが、すぐにボードビル(歌、手品、踊りなどが混ざった大衆演劇)などが行われるようになりました。

ミュージカルスタイルの作品が上演されるようになったのは1850年頃。ニューヨーク地区では、1857年に上演されたThe Elvesという作品が計50公演行われ、ミュージカルスタイルの初のロングラン作品だったと言われています。また現在のようなミュージカル形式のものでは、1866年に始まった「The Black Crook「黒い悪魔」」が最初のミュージカルと言われています。

ブロードウェイは20世紀に入って急成長

The Great White Way時代

The Great White Wayと呼ばれた頃のニューヨーク
20世紀になると、各劇場が白球電球を使った看板を掲げるようになります。
米国ではボストンに次ぐ2番目の地下鉄として1904年に開業して数年後、1910年に現劇場街にも地下鉄が通るようになると、この地区が大きく発展し、 劇場街一体が白い電球で明るくなりました。この様子から、劇場街界隈が「The Great White Way」と呼ばれるようになります。この言葉は歌詞の中だけでなく、現在でもブロードウェイに関する記事の中でも度々使われています。

ブロードウェイ劇場建設ラッシュ

1900年代初期に建設された劇場

1903年10月12日 Lyric Theatre
1903年10月19日 Hudson Theatre
1903年10月23日 New Amsterdam Theatre
1903年11月2日 Lyceum Theatre
1907年10月16日 Belasco Theatre

地下鉄が劇場街にも通るようになった1910年以降に建設された劇場

1910年1月10日 Lunt-Fontanne Theatre
1911年3月10日 Winter Garden Theatre
1912年3月12日 Helen Hayes Theatre
1912年12月20日 Cort Theatre
1913年 Longacre Theatre/Shubert Theatre
1913年3月24日 Palace Theatre
1913年10月16日 Booth Theatre
1917年9月27日 Broadhurst Theatre
1917年10月10日 Gerald Schoenfeld Theatre
1918年 American Airlines Theatree/Stephen Sondheim Theatre

1920年以降 有名な作曲家が登場

コール・ポーター(「Anything Goes」「Kiss Me, Kate」)、ジョージ・ガーシュイン(「Peggy and Bess」)などがこの頃に作品をつくり、今でも多くの人に愛されています。

当時のショー・ボート(Show Boat)の広告の様子
ミュージカルが大きく変わるのが、1927年に上演が始まった「ショー・ボート(Show Boat)」です。
それまで比較的単純でハッピーエンドで終わるストーリーが多く作られてきましたが、この作品で初めてドラマ的な内容がミュージカルになりました。19世紀末のミシシッピ川流域のショウ・ボートという船上でショーを上演する船を舞台に、そこで働く人々を描いた作品ですが、人種差別をテーマに入れており、それまでのお気楽な内容とは違い、深い物語を伝える作品だと高く評価されました。

1939年に始まった世界大恐慌が終わると、上演回数が1000回を超える作品が出てきます。
1943年にオープンした「オクラホマ!(Oklahoma!)」(ロジャース&ハマースタイン作詞作曲)は2212回も上演されました。その他、1945年「回転木馬(Carousel)」(ロジャース&ハマースタイン作詞作曲、890回上演)や1946年「アニーよ、銃をとれ」(アーヴィング・バーリン作詞作曲、1147回上演)など、現在でもアメリカ人に愛されているミュージカルが続々と作られました。
そして1947年に、演劇界の最大の栄誉であるトニー賞がスタートしました。ちなみに、第1回目のトニー賞演劇女優賞を受賞したのは、アカデミー賞に7度ノミネート、3度受賞、エミー賞を2回受賞経験のある伝説の女優イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)でした。

第二次世界大戦後 1945年~

タイムズスクエア,ブロードウェイミュージカルの父「ジョージ・コーハン」

ブロードウェイ第1黄金時代

第二次世界大戦中は、戦争を背景にした作品ができ始め、第4回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の南太平洋(South Pacific)第14回トニー賞ミュージカル作品賞受賞のサウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)など、世界状況を描いたミュージカル名作がブロードウェイに登場しました。
また、ブロードウェイミュージカルの父とも呼ばれる 「ジョージ・M・コーハン(George M. Cohan)」が、ニューヨークに来たのがこの時期です。

ブロードウェイミュージカルの父George M. Cohanとボードビル

ブロードウェイミュージカルが、正式にタイムズスクエアに出現するまで、大衆向けの小劇場というものはボードビル(vaudeville)が主流でした。ボードビルとは、17世紀末にパリに出現した演劇形式で、米国においては舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスです。後に、このボードビルがブロードウェイミュージカルに変化を遂げていきます。

そんなブロードウェイの原点とも言えるボードビルを、ニューヨークブロードウェイに持ち込んだ人物が、ジョージ・M・コーハンです。劇作家、作曲家、作詞家、俳優、歌手、ダンサーといった多才に溢れたていたジョージ・M・コーハンは、元々興行師をメインで活動をしていました。彼は、ミュージカルや劇場が存在しなかった時代に、このボードビルをヨーロッパから持ち込み、大衆を楽しませることに成功しました。また、彼は非常にアメリカ愛国心が強く、作曲家・作詞家においては、アメリカの軍歌を作成するなど、多くのジャンルで活躍した人物です。ブロードウェイミュージカルの父と呼ばれ、ブロードウェイを世界に広めた代表的者として、今もなおジョージ・M・コーハンの銅像は、タイムズスクエアの中心に立っています。

ブロードウェイ第2黄金時代

伝説のブロードウェイ名作「ウエスト・サイド物語(West Side Story)
1940年代~1950年代の戦後のアメリカは、第二次世界大戦の勝利で経済的にも豊かで世界の中心でした。
それに伴いミュージカル作品もまた、差別や貧困を克服した新しいアメリカを反映した作品が多くでてきます。代表的な作品は、1950年代のニューヨークの社会を背景に、移民の若者同士の恋を描いた第12回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「ウエストサイト物語(West Side Story)」や当時の労働環境をテーマにした第9回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「パジャマゲーム(The Pajama Game)」などがあります。ベトナム戦争の頃になると、反戦を歌った第23回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「ヘアー(HAIR)」など、時代を色濃く表す作品が出てきます。

戦後のミュージカルは、時代の背景を基に作成され、非日常ではなく実際に生活をして暮らす人々の日常性が描かれたミュージカルがヒットしたのがこの時期の特徴と言えます。

ルドルフ・ジュリアーニ氏の取組み 1994年~

実は1992年頃までのニューヨーク市は、年間の殺人事件発生数で2000件弱、強姦・強盗・障害・家宅侵入・窃盗・自動車泥棒を加えた7つの重犯罪全体では40万件に達しており、特に42丁目あたりは治安が悪く犯罪多発都市として有名でした。現在、年間約4000万人の観光客が訪問すると言われているタイムズスクエア、ブロードウェイ周辺ですら、ここもかつて1970年代以は降犯罪が多発する危険地域とされるとともに、売春婦やアダルトショップが軒を連ねる景観でした。こういった背景から、ニューヨーク全体として地域をあげて対処するために1992年、地区の大企業、小売業などの中小企業、住人たちによってタイムズスクエアBID(Business Improvement District)は設立されました。さらに1994年、ニューヨークの市長になったルドルフ・ジュリアーニ氏は、その前の年の選挙に立候補する際に3つの公約を掲げ、ニューヨーク市の治安回復に全面的に乗り出します。

ルドルフ・ジュリアーニ氏

ジュリアーニ氏|Rudy Giuliani の掲げた3つの公約

1. 治安の向上(安全な街の確立):犯罪の防止、生活の質の向上
2. 行政改革と経済活性化:市政府の規模の縮小
3. 民間雇用拡大のための経済開発

ゼロ・トレランス政策と割れ窓理論に基づく対策

ジュリアーニ氏が掲げた公約は、違反者に対して直ちに処分をする方針を意味する「ゼロ・トレランス(Zero-Tolerance)政策」と名付けれました。
トレランスは「許容」を意味しますが、トレランスがゼロである=許容範囲なし=少しでも違反したら処分する、という内容で、元々は製造メーカーなどが自社製品の品質改善のために「容赦なく不良品をはじくゼロ・トレランス」として導入した事で世に広まりました。この徹底的とも言える政策を「物ではなく、人に対して適応する」という点については様々な議論がなされ、賛否両論もありましたが、文字通りの徹底的な対応が、結果的にニューヨークの悪の一掃する事になります。

この徹底的な政策は、割れ窓理論(建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという印象となり、他の窓もまもなく壊され、犯罪が繰り返されるようになるという考え)に基づき考案されました。
市長ジュリアーニ氏は、自身が検事だった頃に組織犯罪や薬物事件などでマフィア掃討作戦で陣頭指揮を取った経験から、市長という立場になった後もニューヨーク警察と全面的に協力して政策に取り掛かりました。また、この割れ窓理論の考案者であるジョージ・ケリング(George L. Kelling)を顧問に任命して政策の実施にあたりました。

ジュリアーノ市長の具体的な取り組み

・政府は警察に交付金を与え、警察職員5,000人を増員して街頭パトロールを強化し、1ブロックごとに警察を配置。
・イタリアン・マフィア、中国やベトナム、カンボジアやイランなど各国別にマフィアのトップを重点的に取り締り、ポルノショップや路上アダルトショップの撲滅。
・ニューヨークの地下鉄公団のよる地下鉄の落書き清掃作戦を行い、落書きを徹底的に消すことで地下鉄内の犯罪を減少。また無賃乗車を重罪として対処。
・ゴミのポイ捨てなどの生活環境犯罪。
・未成年の未成年者の喫煙、万引き、騒音の取締。
・交通整備の強化。違法駐車、歩行者・タクシーの交通違反や飲酒運転の厳罰化。
・ホームレスを路上から締め出し、浮浪者を保護施設に収容して労働を強制。

上記数々の施策を行い治安改善へと導いた結果、ジュリアーニ氏就任後の5年間で犯罪の認知件数は殺人が67.5%、強盗が54.2%、婦女暴行が27.4%減少した上、ニューヨーク市過去最多殺人数を出した1990年(10万人当り30.7人)から比べると、2017年には約9分の1(10万人当り3.4人)まで減少しました。今日のニューヨークでは、全米最大の警察とも言える約4万人の警察官が24時間各地巡回しており「最も安全な米国大都市」として、世界中から多くの観光客がニューヨークを訪れます。

ディズニーミュージカルがもたらした治安向上

前述した取り組みの代表的な行動として、ジュリアーニ市長は、現在のニュー・アムステルダム劇場を安い価格でウォルト・ディズニー社に提供しました。ジュリアーニは、ディズニーの力を借りて、子どもたちが来ても安全な場所に変えたいと思っていました。

ディズニーブロードウェイ「ライオンキング(Lion KIng)」
ディズニーはニュー・アムステルダム劇場を改修する傍ら、パレス劇場で1994年に「美女と野獣(Beauty and the Beast)」で初のBroadwayミュージカルをオープンさせました。ディズニーがブロードウェイに進出した際、批評家にはあまり好意的に受け入れられず、トニー賞に9部門ノミネートされたものの、衣装デザインの1部門のみの受賞にとどまりました。しかし、ディズニーが劇場を作ったことで、この近辺の治安はどんどん改善し、今のような世界中から人々が集まる場所になりました。またディズニーは改修の終わったニュー・アムステルダム劇場で、現在も公演が行われている「ライオンキング」を1997年にオープンしました。(現在はミンクスオフ劇場で上演中)

新42丁目(the New 42nd Street organization)

ルドルフ・ジュリアーニ氏による7つの劇場再建築計画
ニューヨーク州と市により設立された新42丁目団体(The New 42nd Street Organization)は、ニューヨーク市マンハッタンに本拠を置く非営利団体で、1990年、42丁目の7番街と8番街の間の7つの歴史ある劇場は荒廃し、注目が薄れていたため、これらの劇場およびこのブロック全体を魅力的な観光として再開発する監督する目的で新42丁目団体は設立されました。
7つの劇場とは、「ビクトリー劇場(Victory Theater)」「アポロ劇場(Apollo Theatre)」「リリック劇場(Lyric Theatre)」「タイムズスクエア劇場(Times Square Theater)」」「セルウィン劇場(Selwyn Theatre)」「リバティー劇場(Liberty Theatre)」「エンパイア劇場(Empire Theatre)」でした。

新42丁目団体の本社ビルは229西42丁目に所在し、Platt Bayard Dovellによる設計で2000年に完成しました。このビルには他にも、新42丁目リハーサル・スタジオやドリス・デュークの名前を冠するThe Duke on 42nd Street劇場なども入居しています。

著名なブロードウェイ劇場建築士

1900年代に入って劇場ラッシュとなり、1910年にマンハッタン内に地下鉄が通ると共に一気に加速した建築ラッシュ。
ある者は当時の最先端の技術を駆使し、ある者は感覚を研ぎ澄ましたこだわりのセンスあるデザインを施し、また、ある者は商業的な考えで効率よく利益が得れるように劇場を建築していきました。
激動の20世紀の中で活躍した劇場建築家の中でも特にご紹介したい著名人たちを一覧にまとめています。ぜひ一度ご一読ください。

ブロードウェイの劇団及び劇団オーナー

劇場経営、自社劇団の運営、ミュージカル制作など、ブロードウェイの運営業態は、会社・団体によって様々です。
一番古く、今でも最大規模として活動しているシューベルト・オーガニゼーションをはじめ、今日のブロードウェイにおけるエンターテイメントを支える運営会社をリストアップしています。

2000年以降~現在のブロードウェイ

2000年以降に建設された劇場

約50個の劇場がひしめき合うブロードウェイのシアター・ディストリクト(Theater District)では、1986年に建設されたマーキス劇場を最後に、暫く劇場の新設はされておりませんでしたが、ブロードウェイのショービジネス産業の盛り上がりに追いつくため、2000年にはシアター・ロウ(Theatre Row)劇場が開業し、また、2004年に劇場として開業したニュー・ワールド・ステージ(元々は映画館として開業し、2001年に閉館)があります。

2001年の同時多発テロ事件以降

2001年の同時多発テロのあとは、重い空気を吹き飛ばそうと明るい楽しいミュージカルが好まれ、「プロデューサーズ(The Producers)」や「スパマロット(Spamalot)」などが大ヒットしました。
2005年以降は、映画を元にしたミュージカルの数が大幅に増えていますが、脚本、作詞作曲など完全オリジナルな作品も続々と生まれているブロードウェイ。時代を反映しながらも、常に新しく革新的な作品が生まれるブロードウェイは、一度見始めると目が離せなくなる魅力がある場所です。

ニューヨークにおけるブロードウェイの興行と影響力

安全対策以外にもニューヨーク州が観光客を引きつけるために税政策を行っています。
The Broadway Leagueによると2015-2016年シーズンのチケットの売上は13億7300万ドル(約1400億円)
延べ観劇客は1332万人
このうち約半分はアメリカ国内の観光客(NYCおよび近郊都市以外からの観光客)、18%は外国人観光客が占めています。
この数字からもわかるように、Broadway産業はニューヨークにとって大きな収入源の一つです。そのためニューヨーク州はチケット代には税金を課しておらず、旅行客がよりチケット買いやすいような仕組みを作っています。

本サイトでも、ニューヨーク現地に来られる前に、オンラインで日本からも事前購入する事が可能です。
割引チケット対象のミュージカル演目を掲載していますので、各演目の詳細ページを御覧ください。

割引チケット絶賛発売中!

ニューヨークのエンターテインメントの中で、最も人気があるブロードウェイミュージカルは、今も昔も、時代の最先端をゆく大都市ニューヨークに欠かせない存在です。
そんな、今日まで続いている歴史あるエンターテイメントを是非本場ニューヨークでご覧いただき、思い出に残るブロードウェイミュージカルを見つけてください。