ガーシュイン劇場の基本情報
ガーシュイン劇場(Gershwin Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。
住所 : | 222 W 51st St, New York, NY 10019(地図) 50ストリート・51ストリート沿い、ブロードウェイと8番街の間 (入口は50、51ストリートどちらからもアクセスできます) |
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創設 : | 1972年11月28日 |
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収容人数 : | 1,933人 |
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座席表 : | ※クリックして拡大できます |
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ガーシュイン劇場の行き方・アクセス
ガーシュイン劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。
地下鉄の最寄駅 :
路線の「7 Ave」駅から徒歩5分ほど
路線の「50 St」駅から徒歩5分ほど
路線の「50 St」駅から徒歩5分ほど
ガーシュイン劇場の地図
以下は、ガーシュイン劇場(Gershwin Theatre)の地図です。
ガーシュイン劇場の歴史
現在のブロードウェイで最大の劇場
ガーシュイン劇場(Gershwin Theatre)は、1970年に開業したパラマウントプラザ(Paramount Plaza)ビルの中に併設されました。
座席数1,933席というブロードウェイの劇場で最も収容人数の多い劇場です。
不動産開発事業者であるハラルド・ユーリス(Harold Uris)とパーシー・ユーリス(Percy Uris)兄弟の名前から、創設当初はユーリス劇場(Uris Theatre)と名付けられました。ラルフ・アルスワン(Ralph Alswang)によって手がけられた建築デザインは、植物模様や流れるような曲線が特徴なアール・ヌーヴォー様式で、当時最先端の音響も劇場に備え付けられていました。
劇場の運営開始後の初公演では、ロック・ミュージカルと呼ばれ、ロックミュージックをミュージカルに取り込んだ「Via Galactica」が公演されましたが、 100万ドルの損失を出してしまったせいでたった7回の公演で打ち切りとなりました。その結果1974年から1976年までの間は、主に伝説のポップミュージックやジャズパフォーマーによる、数々のコンサート・ホールとして使用されていました。
ちなみに1983年6月5日に第37回トニー賞の会場となった劇場で、ユーリス劇場は作詞作曲家のガーシュイン兄弟への敬意を表すために「ガーシュイン劇場」に改名し、2003年から公演しているウィキッドの会場として有名です。
元舞台監督が作った劇場
1972年にラルフ・アルスワン(Ralph Alswang)によって設計されたユーリス劇場ですが、ラルフは元々劇場のプロデュースや映画監督、またはデザイナーでもあり、100以上のブロードウェイ作品の舞台背景や照明、衣装などを手がけてきました。
劇場は高層ビルの2階に位置し、照明器具、劇場内のバーなどをアール・ヌーヴォー様式で造り、多くの人々はオーケストラ席を望んでいると長年の劇場界での経験上思っていたことから、座席数の三分の二以上の1,280席はオーケストラ席となっています。残りの座席はバルコニー席とボックス席の代わりとなるようなサイドセクションが突き出る形で作られています。
アルスワンによると、舞台は様々な用途を可能にするために解体や張り出しステージの追加など、自由に制作できるようになっていて、劇場初のウォーターカーテンを導入したりと、約1250万ドル建設費用としてかかっています。
ガーシュイン劇場の建物について
2つのブロードウェイ劇場を所有するパラマウントプラザ
パラマウントプラザ(Paramount Plaza)とは、マンハッタンのミッドタウン地区に位置する48階建ての超高層ビルです。映画館だったキャピトルシアター(Capitol Theatre)の跡地に建てられ、当時ニューヨーク市で最大の不動産開発事業者であると主張していたユーリス兄弟によって開発されました。
1970年に建設されたビルは当初ユーリスビル(Uris Building)と呼ばれていましたが、兄パーシー・ユーリス(Percy Uris)の死後、弟ハロルド(Harold Uris)はナショナル・キニー・コーポレーション(National Kinney Corporation)に建物を売却しました。しかし上手くビルの運営ができず、破産寸前まで陥ったところを不動産投資会社の
パラマウント・インベストメント・グループ(Paramount Investment Group)が引き継ぎ、名前を一新し現在に至ります。
建物内にはガーシュイン劇場とサークル・イン・ザ・スクエア劇場があり、オフィスビルの上層階にはドイツの金融サービス会社、ワーナー・ミュージック・グループ、法律事務所など様々は企業の事務所が入居しています。
アメリカン・シアター殿堂
ガーシュイン劇場の入り口を入ってエレベーターを上がると、そこにはアメリカン・シアター殿堂所があり、巨大な壁には殿堂入りした劇場界関係の方々の名前が刻印されており、その他写真や小道具や台本などが飾られています。1971年にアール・ブラックウェル(Earl Blackwekk)を筆頭に、ジェームズ・M・ネダーランダー(James M Nederlander)、ジェラルド・オストライヒャー(Gerald Oestreicher)、L.アーノルド・ワイスバーガー(Arnold Weissberger)によってアメリカ劇場の生涯功績を称えるために設立されました。
殿堂入りを果たすには、最低でも劇場での25年間以上のキャリアがあることが条件で、キャリアを持つ俳優、劇作家、デザイナーやプロデューサーの中から、アメリカ劇場批評家協会(ATCA)のメンバー275人の審査員の投票によって毎年選ばれています。アメリカン・シアター殿堂(American Theater Hall of Fame)は、アメリカ劇場の生涯功績を称える唯一の米国に認められた非営利団体で、資金は個人寄付、イベントチケットや物販などによって運用されています。
ガーシュイン兄弟について
多くの名曲を生み出した作詞作曲デュオ
ガーシュイン兄弟は20世紀を代表とする兄弟コンポーザーで、 兄のアイラ・ガーシュイン(Ira Gershwin)は作詞を、弟のジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)は作曲を手がけ、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、数多くの名曲を残したことで有名です。2人がコンビとなって制作される楽曲はジャズとクラシックを融合した曲調に、機知に富んだ親しみやすい内容の歌詞で多くの人に愛好されました。
マンハッタンの対岸にあるブルックリンで兄弟は生まれ、父親は音楽を学ばせようと兄のアイラにピアノを買い与えますが、子供の頃から読書家で文芸趣味があった彼は全く興味を示さず、代わりに弟ジョージが音楽を親しむことになります。
ジョージが13歳の時に本格的にピアノと和声(西洋音楽の音楽理論の用語で、和音の進行、声部の導き方および配置の組み合わせを指す概念のこと)を習い始め、18歳になってその才能を見出された頃から作曲を始めますが、一方でアイラは父が経営していたトルコ風呂(イスラム地方に古くからある乾燥浴)で働いており、1921年まで全く音楽に携わることはありませんでした。
そんなアイラのもとに、ある日エイブラハム・リンカーン・アーランガーがプロデュースした「Two Little Girls in Blue」 の楽曲作詞依頼が入り、人気作曲家のヴィンセント・ユーマンスと組んで音楽制作をしたところ高く評価されたことから、たった一度の成功でショービジネス界に足を踏み入れることになります。当時駆け出しの弟の活躍と評判を落とさないように、アイラは偽名を使用していました。
アイラの劇場界の参入により2人はコンビを組むことになり、1972年のミュージカル「Lady, Be Good」で初めて兄弟でブロードウェイの音楽制作を行いました。その後2人は様々なショーや映画の音楽を輩出し、その中でも有名は歌曲は「私の彼氏(The Man I Love)」「But Not For Me」「I Got Rhythm」「They Can’t Take That Away from Me」などで、アメリカンミュージカル劇場において最も影響力のある人間にまで成長しました。
兄弟コンポーザーの活動は1937年の脳腫瘍によるジョージの急逝(38歳没)にて終わりを告げますが、アイラは3年間の休止期間を経て、再び作詞家として活動し続けました。通称「完璧な音楽家」と呼ばれていたジョージの代表作に「 ラプソディ・イン・ブルー 」がありますが、ジャズ的な色彩とサウンドを大胆に用いたこの曲は、クラシック史上画期的な作品として世界的に高く評価されています。
若くして亡くなった彼が作った多くの曲はジャズのスタンダードになっており、有名歌手やミュージシャンによって今日も愛されています。
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