ロングエーカー劇場の基本情報
ロングエーカー・シアター(Longacre Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。
住所 : | 220 W 48th St, New York, NY 10036(地図) 48ストリート沿い、ブロードウェイと8番街の間 |
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創設 : | 1913年 |
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収容人数 : | 1,045人 |
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座席表 : | ※クリックして拡大できます |
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ロングエーカー劇場の行き方・アクセス
ロングエーカー劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。
地下鉄の最寄駅 :
路線の「50 St」駅から徒歩5分ほど
路線の「50 St」駅から徒歩5分ほど
路線の「49st」駅から徒歩3分ほど
ロングエーカー劇場の地図
以下は、ロング・エーカー劇場(Longacre Theatre)の地図です。
ロングエーカー劇場の歴史
ヘンリー・ハーツが手掛けた最後の劇場建築
ロングエーカー劇場(Longacre Theatre)は、1913年、歌劇団の興行主であったハリー・フレイジー(Harry H. Frazee)によって創設されました。建築デザインを担当したのは、20世紀に名を馳せた建築家ヘンリー・ハーツ(Henry Beaumont Herts)。ハーツはパリで建築デザインを学んだことから、ヨーロッパ風のデザインを大変好み、ロングエーカー劇場にも18世紀のフランス新古典主義に影響を受けたデザインを採用しています。
内装には、アメリカで19世紀末から20世紀初頭に流行した神殿のような雰囲気が特徴のボザール様式を用いています。他にもニューアムステルダム劇場やライシーアム劇場などのデザインを手掛けたハーツですが、ロングエーカー劇場はブロードウェイに建てた最後の劇場でした。
以下の画像では、ハーツが手掛けたロングエーカー劇場の建築の一部をご覧いただけます。
シューベルトが買収後、一時ラジオ局のスタジオへ姿を変える
開業して僅か7年後の1919年、資金繰りに困っていたヘリー・フレイジーは、数多くの劇場を運営していたシューベルト兄弟へロングエーカー劇場を売却しました。最大手の劇場運営者であった「シューベルトオーガニゼーション」に劇場運営が移ったものの、1925年に公演された「The Butter and Egg Man」以降はヒット作が生まれず、さらに世界大恐慌の煽りを受け、この劇場を含めたブロードウェイのショービジネス産業全体が低迷期を過ごします。1935年に公演された「Till The Day I Die」で小さなヒットを出すも、以降に公演された演目はいずれも短い公演期間で終演しました。
第二次世界大戦中の最中の1943年5月5日に公演を開始したコメディミュージカル作品「Three’s a Family」は、小さなアパートの一室で繰り広げられる馬鹿げた内容かつ現実味のない作品でしたが、当時戦時下に置かれていた観客の笑いを誘って497回公演を行い、当時としてはそこそこのロングラン公演となりました。しかし、この公演をしばらく最後に、1944年春から1953年秋まではラジオ局のWORが劇場をリースし、ラジオやテレビの収録スタジオとして利用していました。
アルパチーノ出演以来ヒット作品が続く
1953年、ミュージカル劇場として再開業を果たしたロングエーカー劇場は、1977年に公演した演劇作品「The Basic Training of Pavlo Hummel」で、主演のアルパチーノ(Al Pacino)が第31回トニー賞演劇主演男優賞を受賞し注目を集めました。
翌年の1978年には、「エイント・ミスビヘイブン(Ain’t Misbehavin’)」がヒット。この作品は、1920年~30年代に活躍していた黒人ミュージシャンのFats Wallerに対する賛辞を表した、黒人役者が主体のミュージカルで、今よりも人種差別が顕著であった70年代当時のブロードウェイにおける多様性の必要性を訴えました。同作品が世間で受け入れられた結果、1978年の第32回トニー賞ミュージカル作品賞を含む3部門を受賞し、4部門にノミネートされました。
2005年公開のリバイバル作品「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない(Who’s Afraid of Virginia Woolf)」では、第20回トニー賞演劇作品賞を受賞しました。2007年には、劇場自体の老朽化が進んでいたために数百万ドルを掛けて大規模な修復工事が行われました。2016年から2018年は、俳優のロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro)が監督・製作・主演の3役を務めたミュージカル作品「ブロンクス物語(A Bronx Tale)」が上演され、話題を呼びました。
劇場の名前の由来はタイムズスクエアの旧名称
ロングエーカー劇場という名前は、劇場近くにあった「ロングエーカー・スクエア(Longacre Square)」という広場から由来しています。この広場は、1904年にニューヨークタイムズの本社がこの場所に移転し時に、「タイムズ・スクエア(Times Square)」に改名されました。この劇場の建設が始まった1912年には既にタイムズスクエアと呼ばれていましたが、敢えて旧名称であるロングエーカーの名を与えられています。
ロングエーカー劇場の創業者について
レッドソックスの元オーナーとしても有名なハリー・フレイジー
ロングエーカー劇場を創設したハリー・ハーバート・フレイジーはアメリカ中西部で舞台演出家、劇場プロデューサーとして活躍した後、東海岸に進出して事業を拡大を進めていった人物です。フレイジーの名前をあまり日本で耳にする事はないかと思いますが、駆け出しの頃に劇場内で座席案内役の仕事をしていた彼は、劇場業界で着実に経験を積み、舞台演出家、劇場プロデューサーなど舞台裏の経験を積み、ニューヨークに進出して劇場を建てるまでのし上がった人物であり、アメリカではかなり名の知れた人物です。
彼はロングエーカー劇場を建設した後、1916年にはメジャーリーグ野球のチーム:ボストンレッドソックスを当時の約50万ドル(現在の金銭価値で約5.7兆円)で購入し、同チームの球団オーナーとなりました。その2年後の1918年には、ワールドシリーズにおいてレッドソックスを優勝へ導きましたが、球団を全額ローンで購入したことに加え、ロングエーカー劇場の運営資金やブロードウェイの制作費用などの負担が重なり、球団は極度の財政難に陥りました。
バンビーノの呪いを引き起こしたハリー・フレイジー
ベーブ・ルースが本名でなくあだ名である、という事を知らない人は多いのではないでしょうか。アメリカの野球史に大きくその名を残した彼の本名はジョージ・ハーマン・ルース(George Herman Ruth, Jr.)で、童顔だった事から英語で赤ちゃんを意味するベーブ(Babe)というあだ名で呼ばれるようになり、さらにイタリア語で少年を意味する「バンビーノ」とも呼ばれ親しまれていました。
このベーブ・ルース(バンビーノ)を、フレイジーがニューヨーク・ヤンキースにトレードをしたことをきっかけに、
バンビーノの呪い(Curse of the Bambino)を引き起こしたと言われています。
バンビーノの呪いとは、フレイジーが主力選手を大量放出した1918年してから2004年に至るまでの86年間ワールドチャンピオンになることが出来なかった期間を意味するジンクスで、その呪いを解くためにエベレストの山頂にレッドソックスの帽子を置いてきたという熱狂的なファンもいたと言われていますがが、大半は皮肉や冗談として扱われています。
しかし、今でもレッドソックスとのライバル球団であるヤンキースとの間では、からかいの種としても扱われることがあり、1990年9月に行われた試合でヤンキースのファンが「1918!」という掛け声でレッドソックスを揶揄して以降、レッドソックスとの試合がホーム(ヤンキースタジアム)で行われる度に、「1918!」や「バンビーノの呪い」などと書かれたサインボードやベーブ・ルースの写真を掲げられたりする事がありました。
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