ジョン・ゴールデン劇場の基本情報
ジョン・ゴールデン・シアター(John Golden Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。
住所 : | 252 W 45th St, New York, NY 10036(地図) 45ストリート沿い、ブロードウェイと8番街の間 |
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創設 : | 1927年2月24日 |
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収容人数 : | 805人 |
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座席表 : | ※クリックして拡大できます |
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ジョン・ゴールデン劇場の行き方・アクセス
ジョン・ゴールデン劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。
「42st – Times Square / Port Authority」駅は、構内が広い駅ですので、時間に余裕を持ってお出かけください。
ジョン・ゴールデン劇場の地図
以下は、ジョン・ゴールデン劇場(John Golden Theatre)の地図です。
ジョン・ゴールデン劇場の歴史
マジェスティック劇場、ジェイコブス劇場と併設
ジョン・ゴールデン劇場(John Golden Theatre)は、1927年、マンハッタンの不動産開発者として有名なチャニン兄弟によって、マスク劇場(Theatre Masque)という名前で創設されました。チャニン兄弟は、この劇場を建てる前、所有していた44丁目と45丁目にまたがる広大な土地を有効にかつ建設費用を安く済ませるために、同じ土地の中にホテル:リンカーンホテル(現:ロウホテル)と、3つの劇場:①マジェスティック劇場、②マスク劇場(現:ジョン・ゴールデン劇場)、③ロイヤル劇場(現:ジェイコブス劇場)を同時に建設しました。
さらに、こちらの大小異なる大きさの3劇場にて、
売上や集客状況から上演する演目に最も適したサイズの劇場を決定するなど、チャニン兄弟らしい効率重視の運営によって収益を上げていました。
劇場が隣り合わせになっている建物の写真ハーバート・クラップはモダンスパニッシュ建築様式を採用
ジョン・ゴールデン劇場は、当時最高峰の建築家と謳われたハーバート・クラップ(Herbert J. Krapp)により、内装、外装共にモダンスパニッシュ様式で建築デザインされました。外装にはゴールデンベージュ色のテラコッタ(素焼き)を使用し、上部にはデザインの一環としてベランダを設置しました。
内装も落ち着いたゴールデンベージュ色で統一し、モダンスパニッシュ様式の代表例であるアーチ状の建築が至る所に見られます。また、スペインのルネサンス期をほうふつとさせる数々の装飾あしらわれており、優雅な雰囲気を演出しています。
シューベルト家に劇場運営が変わり、トニー賞受賞作品を多数輩出
創設から僅か3年後の1930年、チャニン兄弟はマジェスティック劇場、マスク劇場(現:ジョン・ゴールデン)、ロイヤル劇場(現:ジェイコブス劇場)の3つの劇場を、ブロードウェイ最大の劇場運営会社「シューベルト・オーガニゼーション」に売却しました。
1937年にはミュージカルプロデューサーのジョン・ゴールデン(John Lionel Golden)がマスク劇場を購入し、自身の名前から劇場名を「ジョン・ゴールデン劇場(John Golden Theatre)」と改名しました。
ちなみに、彼が劇場に自分の名前を付けたのはこれで3度目で、劇場を購入しては自分の名前に改名する人物でした。1946年にシューベルト・オーガニゼーションがこの劇場を買い戻し、2年ほど映画館として運営した後に再び演劇公演を再開。ジョン・ゴールデン劇場で上演された主な代表作は、「ファルセット(Falsettos)」「マスタークラス(Master Class)」、「アベニュー Q(Avenue Q)」です。
特に2003年から2009年まで公演された「アベニュー Q」は、公演回数2,534回を記録し、ジョン・ゴールデン劇場での最長ロングラン公演として知られています。同作品は、オフブロードウェイ演目として、2009年10月09日から2019年5月26日までニューワールドステージ(New World Stages)にて公演が行われました。
ジョン・ゴールデン氏について
他分野で活躍したマルチプレイヤー
ジョン・ゴールデン(John Lionel Golden)はニューヨーク生まれの役者で、脚本家、作詞家、プロデューサー、慈善家でもあり、他分野で活躍をするマルチプレイヤーとして知られていました。彼は元々、メディアや演劇業界とはまったく関係のない学生時代を過ごし、ニューヨーク大学の法科大学院卒業後は化学品製造会社で13年間働いていました。
しかし、密かに作曲家を目指していた彼は、1900年公開のミュージカル作品「Miss Prinnt」へ楽曲を提供したことをきっかけに会社を辞め、作詞・作曲家として活動を開始しました。1916年には、ジャコモ・プッチーニのオペラ作品「蝶々夫人(Madama Butterfly)」を題材とした「プア・バタフライ(Poor Butterfly)」の作詞を手掛け、彼の代表作となりました。
また、1916年からは舞台演出家として最初の作品「Turn to the Right」を成功させ、次に手掛けた「ライトニン(Lightnin’)」は、1918年の公演開始から1,291公演が行われ、当時ブロードウェイでロングラン記録を樹立しました。以降、生涯で150以上の演劇作品やミュージカル作品を生み出しました。
慈善家としてのジョン・ゴールデン
1920年、ゴールデンは妻とクイーンズ地区にあるベイサイドエリア移住しました。近くの住人たちによると、晩年の彼は白いスーツを着て、つばの広い帽子をかぶり、シルバーの杖をついていたようです。 慈善家としても知られていた彼が、1955年6月17日の他界する前に書き残した遺言書には「私の所有する土地(不動産)をニューヨーク市に譲り、一般の人が利用できる公園として欲しい」と記されていました。
ニューヨーク市はその遺言通り、ゴールデンの所有していた土地を一般開放し、整備の行き届いた土地は住宅街、ゴルフ練習場、野球の練習場、ピクニックとして幅広く利用されました。同市はこれらの慈善活動を行ったゴールデンに敬意を表し、1965年に彼の寄付した土地に「ジョン・ゴールデン公園(John Golden Park)」と名付けました。
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