ベラスコ劇場の基本情報
ベラスコ劇場(Belasco Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。
住所 : | 111 W 44th St, New York, NY 10036(地図) 44ストリート沿い、6番街と7番街の間 |
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創設 : | 1907年10月16日 |
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収容人数 : | 1,040人 |
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座席表 : | ※クリックして拡大できます |
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ベラスコ劇場の行き方・アクセス
ベラスコ劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。
「42st – Times Square / Port Authority」駅は、構内が広い駅ですので、時間に余裕を持ってお出かけください。
ベラスコ劇場の地図
以下は、ベラスコ劇場(Belasco Theatre)の地図です。
ベラスコ劇場の歴史
旧名はスタイヴェサント劇場
ベラスコ劇場(Belasco Theatre)は、1907年に劇作家・舞台監督・演出家であるデイヴィッド・ベラスコによって、「スタイヴェサント劇場(Stuyvesant Theatre)」という名前で創設されました。
劇場を建てるにあたって彼が選んだ建築家は、ジェラルドホテル(the Hotel Gerard)、アスター劇場(Astor Theatre)、アポロシアター(Apollo Theatre)、ブロンクスオペラハウス、セルウィン(Selwyn)劇場(現トッド・ハイムズ劇場)などの建築デザインを手掛けたジョージ・キースター(George Keister)でした。
2年後の1909年に、デイヴィッド・べラスコは劇場の上に、私用目的で2階建てのオフィス兼用アパートを建てました。部屋は数々の芸術コレクションで埋め尽くされていて、今でも外から彼のアパートを見ることができます(写真はコチラ)。この劇場は、ベラスコ本人が自身の名前を劇場に付けて以来、100年以上劇場名が変わることなく運営されている事で有名です。
「A Grand Army Man with Antoinette Perry」の公演とともに劇場がオープンした後、1911年にべラスコ自身が原作を書いた「The Return of Peter Grimm」が、ファンタジー劇として231公演に渡るヒット作となり、その当時は最も進歩した劇作法を使用していたと言われています。
彼がこの世を去る1年前の1930年、生前最後の作品となった「Tonight or Never」が成功に終わりましたが、成功に終わったのは興行だけではなく、劇中の演技で恋に落ちる主演キャストだったメルヴィン・ダグラス(Melvyn Douglas)とヘレン・ギャーギャン(Helen Gahagan)は、私生活でも恋仲となり結婚し、生涯を共にして暮らしました。
1935年からは「デッドエンド」の公演が684回行われ、当時こちらの劇場での一番のロングラン作品となりました。
1949年にシューベルト家がこの劇場を買い、3年間の間NBCリースしましたが、その後1953年からはミュージカルの劇場として使用され続け、1971年にはオフ・ブロードウェイから引っ越ししてきた「オー!カルカッタ!(Oh! Calcutta!)」の公演が始まり、1,314公演のロングランを記録しました。この作品は、演者全員が全裸になる点が当時の大きな話題となり、リバイバル公演も含めて計5,959公演というロングラン記録が今でも番付に入るほどになりました。
初めてベラスコ劇場の正面玄関から入った黒人大統領はオバマ大統領
アメリカが深刻な不況にあった2009年。大統領選挙に当選したばかりのバラク・オバマ大統領が、ブルース・シンガーであるビッグ・ジョー・ターナー(Joe Turner)を見るために突如休暇を取ってこの劇場に訪れたことがメディアに取り上げられて問題となりましたが、後にオバマ大統領が、このニューヨークへの旅行がミシェル・オバマ夫人との約束を果たすためだったと述べた事については賛否両論がありました。
ちなみに、この出来事が黒人の大統領が初めて劇場の正面玄関から劇場に入ったという結果を残したのは後になった判明した話です。
デイヴィッド・べラスコ氏について
執筆家・劇作家・舞台監督・プロデューサーを兼任
デイビッド・ベラスコはジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人(Madama Butterfly)」を世界で初めて舞台化した人物として知られていますが、その生涯をすべて舞台制作に捧げる程の演劇に対する愛情とこだわりから、関係者の中では特に暴力的な鬼才として有名でした。
ベラスコは、ゴールドラッシュの際にロンドンから移住したポルトガル出身のユダヤ人の両親を持ち、カリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。小さい頃から芝居好きであったべラスコは、12歳という若さで自身初の舞台作品を著し、18歳からは生まれ育ったサンフランシスコの各劇場に勤務し、裏方から俳優、外国劇の翻訳・翻案まであらゆる仕事をこなし、演劇業界の表も裏も一通り学ぶことになります。
次第に劇作家・舞台監督としての才能を開花させていき、1882年からはニューヨーク、マディソン・スクエア劇場に活動拠点を移して精力的に活動を開始します。
映画草創期の1920年代では、「ロッキーの薔薇」、「金色の野に立つ女」、1925年の「よう!グリフィス」、1926年の「明け行く魂」、1927年の「間諜(1927)」、1930年の「峻峰の争闘」等があり、1931年にニューヨークで77年間の生涯を閉じた後、1932年には「散り行く魂」、「天晴れウォング」、「お蝶夫人」、1938年の「ポルカの歌姫」を含む40本以上の映画に原作者あるいは共同製作者として関わっています。
また演劇においても、最晩年の1930年までに著した脚本制作や舞台演出に参画したブロードウェイ作品は100を優に超えると言われ、中でも「蝶々夫人」や「西部の娘」などをオペラ舞台化した結果、ニューヨーク演劇界における最も影響力のある一人と認識されるようになりました。
ベラスコの舞台装置のその写実性においては目を見張るものがあり、小説家スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)の小説作品「グレート・ギャツビー」の文中にも、登場人物の一人が、ギャツビーの徹底したリアリズムを表現するのに「まさにベラスコだ」という比喩が用いられていました。
作品内容よりも、その見せ方にこだわったベラスコ
ベラスコは演劇内容の素晴らしさよりも、演じる舞台のリアルさ、華やかさ、壮観さ、などにこだわる事で知られており、建築家に劇場デザインを依頼するものの、自身で内装デザインすべてを一つ一つ細かく確認していました。
また、ブロードウェイで初めてスポットライトを採用し、舞台上で初めて日没の光を表現したりと、その当時では考えられないような最新技術を駆使する事でも有名でした。
照明と電源の間に無数の調光器を配置して照明の明るさを微調節できる機材や、シーン展開に同調して動くエレベーター式の舞台セットなどに$750,000以上をつぎ込んだり、内装にはティファニー製の照明や多くのステンドグラスを使用したり、劇場の壁にはアメリカ人芸術家のエバーレット・シンによる作品を施すなど細部にまでこだわりました。
劇場関係者曰く、一般人がここまで広範囲にティファニー製品で埋め尽くられた劇場内装を見ることが出来る場所はアメリカ中を探してもここしかないと言ったほどです。
ティファニー製の天井パネルの写真ベラスコ劇場に現れるベラスコの幽霊
一時、劇場の演者と関係者の間で、公演中に長年使用されていないエレベーターの動く軋む音がしたり、べラスコの幽霊を目撃するいった話が広まりましが、「オー!カルカッタ!(Oh! Calcutta!)」の公演を後に、一連の怪奇現象がなくなったと言われています。当時のニューヨークタイムズの記事によれば「オー!カルカッタ!」の裸の演出がさすがのべラスコにも衝撃的過ぎて成仏されてしまったのではないか、という事です。
2000年以降も何度か幽霊や怪奇現象を目撃したという話もありますが、真相は今も分からないままとなっており、今日では、新しく行われる演目の公演初日にベラスコの幽霊が現れると、その演目は大成功に終わるとさえ言われています。
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