アスター・プレイス劇場の基本情報
アスター・プレイス劇場(Astor Place Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。
住所 : | 434 Lafayette St, New York, NY 10003(地図) |
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創設 : | 1968年1月17日 |
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収容人数 : | 298人 |
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座席表 : | ※クリックして拡大できます |
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アスター・プレイス劇場の行き方・アクセス
アスター・プレイス劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。
地下鉄の最寄駅 :
路線の「Astor Pl」駅から徒歩5分ほど
路線の「8st – NYU」駅から徒歩5分ほど
アスター・プレイス劇場の地図
以下は、アスター・プレイス劇場(Astor Place Theatre)の地図です。
アスター・プレイス劇場の歴史
アスター家によるラファイエット・ストリート開発
アスター・プレイス劇場(アストロ・プレイス劇場 Astor Place Theatre)は、1832年に建築された9つのビルが集結する二層構造物
コロネード・ロウ (Colonnade Row) という建物の1部として、アスタープレイス地区のラファイエット・ストリート(Lafayette Street)に建築されました。
建築デザインは、18世紀後半から19世紀にヨーロッパとアメリカで流通した
グリーク・リバイバル建築(Greek Revival architecture)が用いられ、別名「ラグランジュ・テラス(LaGrange Terrace)」という名で知られていました。
コロネード・ロウの完成
コロネード・ロウ(別名ラグランジュ・テラス)は、ノーホーエリアにある二層構造の建物です。コロネード・ロウが位置するこの土地は、元々アメリカの財閥アスター家(Astor family)の一族で、アメリカの実業家、陸軍軍人でもあったジョン・ジェイコブ・アスター4世(John Jacob Astor)の所有地でした。
ジョン・ジェイコブ・アスター4世率いるアスター家は、18世紀に先代の1世が、アメリカ独立戦争の後にドイツからアメリカに移民後、当時の毛皮貿易で大成功して一代にしてアメリカで史上4番目に莫大な財を築いた財閥一族です。ちなみに、4番目と言われる理由は、石油王のジョン・ロックフェラー、鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー、鉄道王のコーネリアス・ヴァンダービルトのトップ3の存在がありました。
彼らアスター家はアメリカ国内に莫大な所有地を管理し、1804年にこの土地を買収、1826年まではイギリス・ロンドンの上流階級庭園ヴォクソール(Vauxhall Gardens)のアミューズメント施設として使用をしていました。
その後、アスター4世はこの土地に「ラグランジュ・テラス」という名でコロネード・ロウを建築。設計士アレクサンダー・ジャクソン・デイビス(Alexander Jackson Davis)と建築家セス・ギア(Seth Geer)によって建てられたこの建物は、部屋数26部屋からなり、当時珍しい温水と冷水を兼ね備えたお手洗いの完備が施された居住地として使用されました。
また当時としては珍しい27 ft × 15 ft(8.2 m × 4.6 m)の表庭、そして、現在ライブ会場として使用されているパブリック劇場(The Public Theater)の原型であるアスター図書館(the Astor Library)などが含まれ、当時のアスタープレイス地区を代表する建物でした。
19世紀半ばから後半の当時のアスタープレイス地区は、アスター家含め、19世紀前半にアメリカ国内の鉄道ビジネスで莫大な富を得た鉄道王ヴァンダービルト家(Vanderbilt family)、政治家一族デラノ家(Delano family)や発明家・企業家などが多く住み、ニューヨークの最も裕福な人たちの居住地として知られていました。
ちなみにヴァンダービルト家の3第目子孫ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト(William Kissam Vanderbilt )は、ウィンター・ガーデン劇場の創立者でもあります。
このコロネード・ロウは高級住宅地としてニューヨークの著名人が多く定住し、9つの住居はそれぞれ最高約30,000ドルで売却されました。※当時レートで約3万円(1930年代の為替レートは約3円/ドル)また、アメリカ合衆国の文化遺産保護制度の1つであるアメリカ合衆国国家歴史登録財は、完成したコロネード・ロウについて「ニューヨークで活躍する様々な分野を代表する人物のためのエリアだ」と記事を出しています。
1963年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録される
1901年に、コロネード・ロウ内にあった9つの内5つのビルは取り壊され、現在の4つのビルで形成されている建物へと変化を遂げます。1963年には、4つのビルに再構築されたコロネード・ロウがニューヨークランドマークに指定され、また1976年に、アメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されるなど、ニューヨークの重要歴史建物として、アメリカを代表する建物として生まれ変わりました。
1966年から施行されているアメリカ合衆国国家歴史登録財は、現在、ニューヨーク州だけで約5,936個にもなる歴史的重要建築物が登録されています。代表的な登録建物として、エンパイア・ステート・ビルディングや自由の女神などが挙げられます。
アスター・プレイス劇場の登場
1965年に、起業家ブルース・メイルマン(Bruce Mailman)によって、コロネード・ロウにアスタープレイス劇場が登場、1968年に最初のミュージカル作品「The Indian Wants the Bronx」の上演を開始しました。 アスタープレイス劇場があるコロネード・ロウイースト・ビレッジ地区の企業家として有名であったブルース・メイルマンは、アスタープレイス劇場のオーナー兼デザインを担当し、また1970年代のミュージカル作品「The Dirtiest Show in Town」「The Neon Woman」「both by Tom Eyen」「The Faggot」の制作も手がけました。
1970年代から1980年代のアスタープレイス劇場は、過去にトニー賞演劇作品賞でノミネートを2度獲得し、オビー賞受賞経験のある劇作家サム・シェパード(Sam Shepard)の作品をプレミア上演することで知られていました。
1991年からブルーマングループ公演開始
「ブルーマングループ(Blue Man Group)」は、1991年かアスター プレイス劇場にて公演を開始、現時点で約10,400回以上公演回数をもつロングラン作品の1つです。ブルーマンは、顔を真っ青に塗ったスキンヘッドの3人組「ブルー・マン」たちが、音楽や演劇など様々なパフォーマンスを舞台上で繰り広げるパフォーマンスショーです。2度のオビー賞を受賞し、今まで、日本を含め世界各国約20都市以上で公演をしている世界的人気オフ・ブロードウェイ作品です。
ブルーマングループは、1987年に、最初の3人組となる3人のメンバー(マット・ゴールドマン(Matt Goldman)、フィル・スタントン(Phil Stanton)、クリス・ウィンク(Chris Wink))によって結成され、当初は、マンハッタンのイースト・サイド地区の路上でストリート・パフォーマンスを行っていました。その後、路上パフォーマンスから人気がでたため、同地区のイースト・サイドの小さなクラブで公演を開始、1991年からこのアスタープレイス劇場の所有として拠点を開始しました。
現在ではアスタープレイス劇場を代表するオフ・ブロードウェイ作品として、ニューヨークのエンターテイメント界にとって重要な存在となっています。
8世紀にアメリカに移民してから財を成したアスター家ですが、先代1世の死後も、アスター家の財産は絶えることはありませんでした。イギリスに移住した子孫は、イギリス臣民となり慈善事業などに尽くした功績で、貴族として連合王国貴族の爵位も与えられ、一方、アメリカに残った子孫は、ニューヨークで有する莫大な不動産の運用で知られ「ニューヨークの地主(the Landlords of New York)」と呼ばれていました。
ジョン・ジェイコブ・アスター4世も、その内の1人としてニューヨークの不動産を相続し、コロネードロウを含む多くの土地をニューヨーク各地に所有していました。
しかし、一族の栄華が続いたある日、ジョン・ジェイコブ・アスター4世と妻マデリン・アスター(Madeleine Astor)は新婚旅行先のパリからニューヨークに帰国するために、1912年豪華客船タイタニック号(RMS Titanic)に乗船しましたが、誰もが知っている航海中の事故によりタイタニック号が沈没。
妻のマデリンだけが救命ボートに乗ることができ無事に命を取り留めましたが、ジョン・ジェイコブ・アスター4世本人は、救命ボート不足により帰らぬ人となってしましました。後に、彼の遺体の身元は、襟に縫ってあった”J.J.A.”のイニシャルにより特定され、現在もマンハッタン市内のトリニティ・チャーチ墓地(Trinity Church)の一族の霊廟に埋葬されています。
アスター・プレイス劇場の建築スタイル
アスタープレイス劇場には、18世紀後半から19世紀にヨーロッパとアメリカで流通したグリーク・リバイバル建築(Greek Revival architecture)やコロネード・ロウの由来となった列柱、コロネード(colonnade)が使われています。
グリーク・リバイバル建築とは
コロネード・ロウに用いれられているグリーク・リバイバル建築(Greek Revival architecture)は、古代ギリシア人によって創造された
ギリシア建築(Ancient Greek architecture)の復興様式であり、18世紀後半から19世紀初頭にかけてヨーロッパとアメリカで流行しました。
元々のギリシア建築は、紀元前9世紀頃から紀元1世紀頃にかけて、現在のギリシアや南イタリアを中心とした地方で栄え、壁が存在せず円柱と梁(屋根)からなる構造に、空間より細部の装飾に凝った彫刻が特徴の、当時の神殿に多く使用された建築方法です。
代表的な建物として、アテネ(ギリシャ)のアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿(Parthenon)が挙げられ、古代ローマ建築の源泉として知られていますが、ヨーロッパでは18世紀まで忘れ去られていた建築様式でした。
しかし、18世紀中から19世紀初頭にかけて、ギリシア建築が古代建築の起原であると考えられるようになり、ギリシア建築の復興運動が巻き起こります。この運動をきっかけにグリーク・リバイバル建築(Greek Revival architecture)と呼ばれる建築方法が、ヨーロッパを始めアメリカ国内各地に浸透されるようになりました。
ニューヨークにも、約40個のグリーク・リバイバル様式の建物が建築され、代表的な建物としてコロネード・ロウ(Colonnade Row)の他に、1842年に建築されたアメリカ合衆国議会旧議事堂の敷地に建つ記念館フェデラル・ホール(Federal Hall)が挙げられます。
コロネード・ロウとは
コロネード・ロウの名前の由来でもあり、グリーク・リバイバル建築に使用されているコロネード(colonnade)は、連結された柱の並びを指し、主に建物の入り口を覆うように正面に沿って一列等間隔の柱でできた建築様式です。
一般的に建物の正面入口を覆うようになっているコロネードをポルチコ(Portico)と呼び、屋根のない中庭を取り囲んでいる場合はペリスタイル(Peristyle)と呼びます。素材は木材や石造または大理石が使用されることが多く、8本以上の柱からなる一列等間隔だけでなく、建物をを取り囲むような柱の周柱式もコロネードと呼びます。
ジョン・ジェイコブ・アスター4世とアスタープレイス地区
アスタープレイス地区の成り立ち
アスター・プレイス (Astor Place)地区 は、マンハッタンのノーホー地区とイースト・ビレッジ地区内の2ブロックに渡って走る短い通りのことを指し、その区間は、西ブロードウェイ(Broadway)から東3番街(Third Avenue)まで及びます。アスター・プレイス地区内の代表的なストリートは、アスタープレイス劇場の所在地でもあるラファイエット・ストリート(Lafayette Street)です。
1748年に、スイス出身の医師Jacob Sperryが、現在のラファイエット・ストリートとアスター・プレイスの交差点付近にニューヨーク初の植物園を設立。のちにジョン・ジェイコブ・アスター4世がこの土地を買収し、コロネード・ロウの建設及びラファイエット・ストリートの開発を行いました。
彼はこの通りを、アメリカ独立革命とフランス革命の双方における活躍によって「両大陸の英雄」と讃えられたフランスの政治家「ラファイエット侯爵(Marquis de Lafayette)」を記念して「ラファイエット・プレイス(Lafayette Place)」と名付けました。この通りは1900年代初頭にニューヨーク市によって南へ拡張され、現在の「ラファイエット・ストリート」へと改名されました。
このラファイエット・ストリートを含むアスター・プレイス地区の名前由来は、彼が他界した1848年に「ジョン・ジェイコブ・アスター(John Jacob Astor)」と「ラファイエット・プレイス(Lafayette Place)」を取って命名されました。よって、アスターの場所(Place)を意味するプレイスではなく、偉人の名字である「プレイス」が使用されているのですが、ニューヨーク以外の方にはあまり知られていない話です。
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