ブロードウェイ劇場街の起源 1842年~
はじまりは1842年に建てられた「ビクトリア劇場」
ブロードウェイミュージカルの歴史は、1842年、劇場事業家のオスカー・ハマースタインが、42丁目と7番街の場所に1000の座席を持つ「ビクトリア劇場(Victoria Theatre)」を建てたのがはじまりと言われています(1915年に閉場)。もともとは正統な劇場として作られましたが、すぐに
ボードビル(歌、手品、踊りなどが混ざった大衆演劇)などが行われるようになりました。
ミュージカルスタイルの作品が上演されるようになったのは1850年頃。ニューヨーク地区では、1857年に上演された「The Elves」という作品が計50公演行われ、ミュージカルスタイルの初のロングラン作品だったと言われています。また現在のようなミュージカル形式のものでは、1866年に始まった「黒い悪魔 The Black Crook」が最初のミュージカルと言われています。
オペラ歌劇がブロードウェイ劇場街の火付け役となった
当時、ボードビルが登場する以前の娯楽と言えば「オペラ(歌劇)」が主流でした。1883年に、オペラの公演劇場「旧メトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)」がブロードウェイ番街と39丁目の角に建設され、当時の上流階級の娯楽とされていた歌劇というものが一般的庶民の娯楽へ変化していきます。
このオペラハウスがブロードウェイに登場したことがきっかけで、ブロードウェイにミュージカルの劇場街「シアター・ディストリクト(Theater District)」が形成され始めたと言われています。
※メトロポリタン歌劇場は1966年にリンカーン・センター内に移転
オペラの巨匠:ジャコモ・プッチーニ
オペラ作品は今日のブロードウェイ・ミュージカル作品にも大きく影響しており、その代表格とされるのが、オペラ歴史における最後の英雄
ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)です。彼が手掛けたオペラ作品をミュージカル化した作品には、1996年トニー賞ミュージカル作品賞を受賞した「レント(Rent)」や2017年トニー賞リバイバル作品賞をノミネートした「ミス・サイゴン(Miss Saigon)」などが挙げられます。
ジャコモ・プッチーニは、20世紀初頭に活躍したイタリアのロマン派音楽の作曲家で、イタリア最後の本格グランド・オペラ作曲家と評されています。「マノン・レスコー」「トスカ」「ラ・ボエーム」などをはじめ、今日では「ご当地3部作」として知られている外国を舞台にしたオペラ作品(①長崎を題材にした「蝶々夫人」、②アメリカを題材にした「西部の娘」、③中国を題材した「トゥーランドット」)を世に送り出した事でも有名です。また、彼はオペラ制作において叙情的かつ旋律的な独唱曲(アリア)の名作家としても知られており、トスカの「歌に生き、恋に生き」や「星は光りぬ」、トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」などの名曲を生み出しました。
20世紀はじめ ブロードウェイミュージカルの急成長
「グレイト・ホワイト・ウェイ」の時代
20世紀になると、各劇場が白球電球を使った看板を掲げるようになります。
米国ではボストンに次ぐ2番目の地下鉄として、1904年にニューヨークの地下鉄が開業して数年後、1910年に現劇場街にも地下鉄が通るようになると、この地区が大きく発展し、 ブロードウェイ劇場街一体が白い電球で明るくなりました。この様子から、劇場街界隈が「
グレイト・ホワイト・ウェイ(The Great White Way)」と呼ばれるようになります。この言葉は現在でもブロードウェイに関する歌詞や記事の中でも度々使われています。
ブロードウェイ劇場建設ラッシュ
20世紀初頭、ブロードウェイ近辺に、今日も残る大きな劇場が次々と建設されました。
1900年代初期に建設されたブロードウェイ劇場
地下鉄がブロードウェイ劇場街にも通るようになった1910年以降に建設された劇場
1920年以降 有名な作曲家が登場
1920年に入ると、コール・ポーター(代表作:「Anything Goes」「キス・ミー・ケイト(Kiss Me, Kate)」)、ジョージ・ガーシュイン(「Peggy and Bess」)、ロジャース&ハマースタイン(代表作:「南太平洋(South Pacific)」「王様と私(The King and I)」「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」「回転木馬(Carousel)」「オクラホマ!(Oklahoma!)」)などの偉大な作曲家が多く登場します。この頃の作品は、今でも多くの人に愛されています。
ミュージカルが大きく変わるのが、1927年に上演が始まった「
ショー・ボート(Show Boat)」です。それまで比較的単純でハッピーエンドで終わるストーリーが多く作られてきましたが、この作品で初めてドラマ的な内容がミュージカルになりました。19世紀末のミシシッピ川流域のショウ・ボートという船上でショーを上演する船を舞台に、そこで働く人々を描いた作品ですが、人種差別をテーマに入れており、それまでのお気楽な内容とは違い、深い物語を伝える作品だと高く評価されました。
世界大恐慌後のミュージカル活性化
1929年の世界恐慌で、アメリカの経済は一時低迷します。大恐慌の影響が落ち着いた頃、1943年に開幕した「オクラホマ!(Oklahoma!)」(ロジャース&ハマースタイン作詞作曲)は2212回も上演され大成功に終わりました。その他、1945年「回転木馬(Carousel)」や1946年「アニーよ、銃をとれ」など、現在でもアメリカ人に愛されているミュージカルが続々と作られました。
さらに1947年、ミュージカル・演劇界の最大の栄誉であるトニー賞授賞式が創設されます。組織的な賞の創設により、ブロードウェイミュージカルは益々盛り上がりを見せていきます。第1回目のトニー賞演劇女優賞を受賞したのは、アカデミー賞に7度ノミネート、3度受賞、エミー賞を2回受賞経験のある伝説の女優イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)でした。
第二次世界大戦後 1945年~
ブロードウェイ第1黄金時代
第二次世界大戦中は、戦争を背景にした作品が発表され始めます。第4回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「南太平洋(South Pacific)」や第14回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」など、当時の世界状況を描いたミュージカルが評価されていきました。また、ブロードウェイミュージカルの父とも呼ばれる 「
ジョージ・M・コーハン(George M. Cohan)」が、ニューヨークに来たのがこの時期です。
ボードビル時代とジョージ・M・コーハン
ブロードウェイミュージカルが、正式にタイムズスクエアに出現するまで、大衆向けの小劇場というものはボードビル(vaudeville)が主流でした。
ボードビルとは、17世紀末にパリに出現した演劇形式で、米国においては舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスです。後に、このボードビルがブロードウェイミュージカルに変化を遂げていきます。 そんなブロードウェイの原点とも言えるボードビルを、ニューヨークブロードウェイに持ち込んだ人物が、ジョージ・M・コーハンです。劇作家、作曲家、作詞家、俳優、歌手、ダンサーといった多才に溢れたていたジョージ・M・コーハンは、元々興行師をメインで活動をしていました。彼は、ミュージカルや劇場が存在しなかった時代に、このボードビルをヨーロッパから持ち込み、大衆を楽しませることに成功しました。
また、彼は非常にアメリカ愛国心が強く、作曲家・作詞家においては、アメリカの軍歌を作成するなど、多くのジャンルで活躍した人物です。ブロードウェイミュージカルの父と呼ばれ、ブロードウェイを世界に広めた代表的者として、今もなおジョージ・M・コーハンの銅像は、タイムズスクエアの中心に立っています。
ブロードウェイ第2黄金時代
1940年代~1950年代の戦後のアメリカは、第二次世界大戦の勝利で経済的にも豊かで世界の中心でした。
それに伴いミュージカル作品もまた、差別や貧困を克服した新しいアメリカを反映した作品が多くでてきます。代表的な作品は、1950年代のニューヨークの社会を背景に、移民の若者同士の恋を描いた第12回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「ウエストサイト物語(West Side Story)」や当時の労働環境をテーマにした第9回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「パジャマゲーム(The Pajama Game)」などがあります。ベトナム戦争の頃になると、反戦を歌った第23回トニー賞ミュージカル作品賞受賞の「ヘアー(HAIR)」など、時代を色濃く表す作品が出てきます。
戦後のミュージカルは、時代の背景を基に作成され、非日常ではなく実際に生活をして暮らす人々の日常性が描かれることが大きな特徴と言えます。
ルドルフ・ジュリアーニ氏の取組み 1994年~
荒れ果てた劇場街を復活させた功労者
実は1992年頃までのニューヨーク市は、年間の殺人事件発生数で2000件弱、強姦・強盗・障害・家宅侵入・窃盗・自動車泥棒を加えた7つの重犯罪全体では40万件に達しており、特に42丁目あたりは治安が悪く犯罪多発都市として有名でした。現在、年間約4000万人の観光客が訪問すると言われているタイムズスクエア、ブロードウェイ周辺ですら、ここもかつて1970年代は降犯罪が多発する危険地域とされるとともに、売春婦やアダルトショップが軒を連ねる景観でした。そして、リリック劇場などの主要劇場が集結する42丁目の8番街と9番街もまた、かつては建物として機能しておらず、シャッター街がひしめき合う衰退した街並みとなっていました。
こういった背景から、ニューヨーク全体として地域をあげて対処するために1992年、地区の大企業、小売業などの中小企業、住人たちによってタイムズスクエアBID(Business Improvement District)は設立されました。さらに1994年、ニューヨークの市長になった
ルドルフ・ジュリアーニ氏は、その前の年の選挙に立候補する際に3つの公約を掲げ、ニューヨーク市の治安回復に全面的に乗り出します。
ジュリアーニ氏が掲げた3つの公約
1. 治安の向上(安全な街の確立):犯罪の防止、生活の質の向上
2. 行政改革と経済活性化:市政府の規模の縮小
3. 民間雇用拡大のための経済開発
ゼロ・トレランス政策と割れ窓理論に基づく対策
ジュリアーニ氏が掲げた公約は、違反者に対して直ちに処分をする方針を意味する「ゼロ・トレランス(Zero-Tolerance)政策」と名付けれました。
トレランスは「許容」を意味しますが、トレランスがゼロである=許容範囲なし=少しでも違反したら処分する、という内容で、元々は製造メーカーなどが自社製品の品質改善のために「容赦なく不良品をはじくゼロ・トレランス」として導入した事で世に広まりました。この徹底的とも言える政策を「物ではなく、人に対して適応する」という点については様々な議論がなされ、賛否両論もありましたが、文字通りの徹底的な対応が、結果的にニューヨークの悪の一掃する事になります。
この徹底的な政策は、割れ窓理論(建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという印象となり、他の窓もまもなく壊され、犯罪が繰り返されるようになるという考え)に基づき考案されました。市長ジュリアーニ氏は、自身が検事だった頃に組織犯罪や薬物事件などでマフィア掃討作戦で陣頭指揮を取った経験から、市長という立場になった後もニューヨーク警察と全面的に協力して政策に取り掛かりました。また、この割れ窓理論の考案者であるジョージ・ケリング(George L. Kelling)を顧問に任命して政策の実施にあたりました。
ジュリアーノ市長の具体的な取り組み
- 政府は警察に交付金を与え、警察職員5,000人を増員して街頭パトロールを強化し、1ブロックごとに警察を配置
- イタリアン・マフィア、中国やベトナム、カンボジアやイランなど各国別にマフィアのトップを重点的に取り締り、ポルノショップや路上アダルトショップの撲滅
- ニューヨークの地下鉄公団のよる地下鉄の落書き清掃作戦を行い、落書きを徹底的に消すことで地下鉄内の犯罪を減少。また無賃乗車を重罪として対処
- ゴミのポイ捨てなどの生活環境犯罪の取締
- 未成年の未成年者の喫煙、万引き、騒音の取締
- 交通整備の強化。違法駐車、歩行者・タクシーの交通違反や飲酒運転の厳罰化
- ホームレスを路上から締め出し、浮浪者を保護施設に収容して労働を強制
上記数々の施策を行い治安改善へと導いた結果、ジュリアーニ氏就任後の5年間で犯罪の認知件数は殺人が67.5%、強盗が54.2%、婦女暴行が27.4%減少した上、ニューヨーク市過去最多殺人数を出した1990年(10万人当り30.7人)から比べると、現在では約9分の1(10万人当り3.4人)まで減少しました。今日のニューヨークでは、全米最大の警察とも言える約4万人の警察官が24時間各地巡回しており「最も安全な米国大都市」として、世界中から多くの観光客がニューヨークを訪れます。
ディズニーミュージカルがもたらした治安向上
前述した取り組みの代表的な行動として、ジュリアーニ市長は、現在のニュー・アムステルダム劇場を安い価格でウォルト・ディズニー社に提供しました。ジュリアーニは、ディズニーの力を借りて、子どもたちが来ても安全な場所に変えたいと思っていました。
ディズニーはニュー・アムステルダム劇場を改修する傍ら、パレス劇場で1994年に「美女と野獣(Beauty and the Beast)」で初のBroadwayミュージカルをオープンさせました。ディズニーがブロードウェイに進出した際、批評家にはあまり好意的に受け入れられず、トニー賞に9部門ノミネートされたものの、衣装デザインの1部門のみの受賞にとどまりました。しかし、ディズニーが劇場を作ったことで、この近辺の治安はどんどん改善し、今のような世界中から人々が集まる場所になりました。またディズニーは改修の終わったニュー・アムステルダム劇場で、1997年、「ライオンキング」の公演をスタートしました。
非営利団体「新42丁目」
ニューヨーク州と市により設立された新42丁目団体(The New 42nd Street Organization)は、ニューヨーク市マンハッタンに本拠を置く非営利団体で、1990年、42丁目の7番街と8番街の間の7つの歴史ある劇場は荒廃し、注目が薄れていたため、これらの劇場およびこのブロック全体を魅力的な観光として再開発する監督する目的で新42丁目団体は設立されました。
7つの劇場とは、「ビクトリー劇場(Victory Theater)」「アポロ劇場(Apollo Theatre)」「リリック劇場(Lyric Theatre)」「タイムズスクエア劇場(Times Square Theater)」」「セルウィン劇場(Selwyn Theatre)」「リバティー劇場(Liberty Theatre)」「エンパイア劇場(Empire Theatre)」でした。
新42丁目団体の本社ビルは229西42丁目に所在し、Platt Bayard Dovellによる設計で2000年に完成しました。このビルには他にも、新42丁目リハーサル・スタジオやドリス・デュークの名前を冠するThe Duke on 42nd Street劇場なども入居しています。
2000年以降~現在のブロードウェイ
2000年以降に建設されたブロードウェイ劇場
約50個の劇場がひしめき合うブロードウェイのシアター・ディストリクト(Theater District)では、1986年に建設されたマーキス劇場を最後に、暫く劇場の新設はされておりませんでしたが、ブロードウェイのショービジネス産業の盛り上がりに追いつくため、2000年にはシアター・ロウ(Theatre Row)劇場が開業し、また、2004年に劇場として開業したニュー・ワールド・ステージ(元々は映画館として開業し、2001年に閉館)があります。
2001年の同時多発テロ事件以降
2001年の同時多発テロのあとは、重い空気を吹き飛ばそうと明るい楽しいミュージカルが好まれ、「プロデューサーズ(The Producers)」や「スパマロット(Spamalot)」などが大ヒットしました。
2005年以降は、映画を元にしたミュージカルの数が大幅に増えていますが、脚本、作詞作曲など完全オリジナルな作品も続々と生まれているブロードウェイ。時代を反映しながらも、常に新しく革新的な作品が生まれるブロードウェイは、一度見始めると目が離せなくなる魅力がある場所です。
ニューヨークにおけるブロードウェイの影響力と税対策
ブロードウェイ産業はニューヨークにとって大きな収入源の一つです。The Broadway Leagueによると年間1332万人を越える観客のうち約半分はアメリカ国内の観光客(NYCおよび近郊都市以外からの観光客)、18%は外国人観光客が占めています。そのためニューヨーク州はチケット代には税金を課しておらず、旅行客がよりチケット買いやすいような仕組みを作っています。
本サイトでも、ニューヨーク現地に来られる前に、オンラインで日本からも事前購入する事が可能です。割引チケット対象のミュージカル演目を掲載していますので、各演目の詳細ページを御覧ください。
ブロードウェイの歴史について更に詳しく知ろう
以下のリンク先から、ブロードウェイの劇場の座席の種類と選び方や、ブロードウェイの劇場運営会社一覧をご覧頂けます。
豪勢で美しい、ブロードウェイの劇場の設計を担った20世紀の有名な建築士を一覧にまとめています。
今日もブロードウェイミュージカルを支えている劇場運営会社を一覧で紹介しています。
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