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舞台に携わる方々の生の声を届け、多くの反響をいただいている本シリーズ。今回は、2022年に文化庁の新進芸術家海外研修制度の研修員としてニューヨークで1年間演劇業界の修学をしていた女優・高野菜々(こうの なな)さんにインタビューをさせていただきました。
広島で生まれ育ち、19歳から音楽座ミュージカルの劇団員として舞台に立ち続けてきた高野さん。どのような経緯でニューヨークへ来たのか? ニューヨークで演劇に携わる方法とは? 未来の俳優たちへのメッセージは? など、次の世代のスターへ届くよう、ブロードウェイで働くことに焦点を当てて、インタビューをさせて頂きました。
舞台に憧れて入った世界での華やかなデビューと、経験の浅さから陥ったスランプ

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──どのようにミュージカル女優になりましたか?
「生まれは広島で、母がミュージカル好きだったこともあり、小さい頃からアニーの広島公演など、さまざまなミュージカルを観に連れて行ってもらっていました。でも当時の私は、小学生くらいで “この子がまさかミュージカル女優を目指すなんて想像できない” と思われるような、いわゆるぽっちゃり体型で。憧れはあっても人にはなかなか言えずにいました。
そんな中、小学4年生の時に叔父が市民ミュージカルに応募して、実際に舞台に立ったのです。その叔父は特にミュージカル好きというわけでも俳優志望でもない “普通の人” だったので、とても驚きました。それを見て、“なんだ、あのおじちゃんでもミュージカルに出られるんだ” と思って。そこから私も市民ミュージカルに参加するようになりました。それが小学5年生の時で、すべてのきっかけです。」
──きっかけはどこにあるかわからないものですね
「おもしろいですよね。それで、ずっと趣味のような気持ちでミュージカルを続けていたのですが、中学2年生のときに劇団四季の『キャッツ』の広島公演を観劇して、“私はこれをやりたい!” と思ったのです。そこから “趣味” ではなく “仕事” にしたいと気持ちを切り替えました。クラシックバレエや歌のレッスンを始め、広島音楽高等学校に進学しました。ちょうど高校受験をどうしようか考えていたときに、広島音楽高校にミュージカルコースが新設されたので、ここだと思って進学しました。ただ、後から聞いた話なのですが、当時の教頭先生が、たまたま私のレッスンを見て “この子を取りたい” と思ってくださっていたそうで……本当に光栄なことですよね。そんなご縁もあって、ワクワクしながらミュージカルコースの1期生として入学しました。同期は10人くらいで、みんなで楽しく学んでいたのですが、高校1年生の後半に宝塚歌劇団の公演を観てしまいまして……」
──まさか、宝塚歌劇団に!?
「そうなのです。“ここに入りたい!” と強く思ってしまって。宝塚って、中学3年生から高校3年生までの4年間しか受験資格がないのです。私、そういう『期限付きの挑戦』に燃えるタイプで。“受けよう!” とすぐに決めました。
高校2年生で初めて受けて、不合格。全てをかけて高校3年生のラストチャンスに挑もう、と思い、高校を中退して、通信制の学校に編入しました。しかしながら、高校3年生の時の宝塚受験も、最終試験まで進んだものの、残念ながら不合格となってしまいました。人生をかけて挑戦していたので、“これからどうしよう……” と毎日のように泣いていました。
そんな折、先ほどお話に出た音楽高校の教頭先生が、“ミュージカル俳優の新妻聖子さんと今井清隆さんが広島にいらして、音楽高校の生徒たちと共演されるのだけれど、出演してみない?” と声をかけてくださったのです。私はすでに高校を卒業していましたが、“つらい思いをしているのなら、一緒に出てみなよ” と背中を押していただき、音楽高校の生徒約50人と共にパフォーマンスに参加することになりました。
そして、そのリハーサルが終わった後に、今でも忘れられない出来事が起きたのです。なんと新妻聖子さんが私のもとへ来てくださり、“あなた、すごく輝いていたわよ” と声をかけてくださったのです。それが本当に、奇跡のような瞬間に感じられました。」
──想像して泣きそうです
「そのときの私は、宝塚にも不合格となり、大学も受験しておらず、夢も希望も見えなくなっていた時期でした。そんな中で、言葉の力で人を励ますことができる新妻さんに憧れを抱き、“私もあんなふうに誰かの心を動かせる人になりたい” と、新たな夢を持つことができたのです。
さっそく新妻聖子さんについて調べてみたところ、“音楽座ミュージカル” という劇団の舞台で菊田一夫演劇賞を受賞されたことを知りました。音楽座ミュージカルとは、オリジナルのミュージカルに特化して公演を行っているカンパニーです。当時、たまたま関西でオーディションがあることを知り、“関西なら行ってみよう” と思い、挑戦してみることにしました。
オーディションが終わった直後、プロデューサーの方から “あなたは合格です。ぜひうちに来てほしい” と言っていただきました。勢いで受けてしまったこともあり、不安もありましたが、これはもう運命だと感じ、劇団への入団を決めたのです。それは、新妻さんにお会いしてからわずか1か月後の出来事でした。我ながら、驚くほどのスピード感ですよね(笑)。そしてその年の12月には初舞台を踏ませていただいたのですが、なんと新妻聖子さんが演じられていた役と同じ役で、デビューをさせていただいたのです。」
──デビュー作で主演だったのですね!
「そう、初舞台で主演を務めさせていただきました。当時は、その責任の大きさなどもまだよく分からず、“やったー!” という気持ちで飛び込んでいったのですが、結果的に、自分にとってとても大きな仕事であり、人生の転機となった作品でした。
19歳で劇団に入団してからは、ずっと日本で舞台に立っていましたが、2010年頃に、観光でニューヨークに1週間ほど行ったことがありまして、『ビリー・エリオット』や『メリー・ポピンズ』『ジャージー・ボーイズ』などのミュージカルを観たのです。ただ、その時のニューヨークの印象は正直あまり良いものではありませんでした。“街が汚い” “食べ物が美味しくない” “適当な人が多い” といったように、戸惑うことばかりで……。時期的にも非常に寒く、また英語でのコミュニケーションもうまく取れなかったため、あまり良い印象を持てないまま帰国しました。」
──ようやくニューヨークが登場しました!
「その後ロンドンにも行ったのですが、ロンドンのことはとても気に入りました。街が綺麗で雰囲気も良くて。そうした旅行でインプットを得ながら、その後も日本ではメインキャストとして継続的に舞台に立たせていただいていました。
ただ、これはよくある話かもしれませんが、私は19歳で初舞台・初主演を経験させていただき、その後もずっと役をいただいていたのですが、そうした “ビギナーズラック” のようなフレッシュな時期を過ぎた頃から、“インプットよりアウトプットの方が多くなっているかもしれない” と感じ始めたのです。“実力が足りていないな” と感じることも増えてきました。
私は “ミュージカルが好き!” という想いだけでこの世界に飛び込んだので、ある意味、趣味の延長のような気持ちでスタートした部分もありました。それが悪いことだとは思っていませんが、経験を重ねる中で、人生経験の浅さを痛感するようになったのです。例えば、作品の根幹となる役をいただくと、人物の繊細な心の動きを理解し、表現しなければなりません。ですが、どうしても自分の中の引き出しが足りず、深みを出しきれないことがありました。当然それは評価にもつながらず、“演じきれなかった” という悔しさが残ってしまって。そうして少しずつ、自信を失っていったのです。」
──人生経験の豊かさが、表現力に繋がるお仕事なのですね
「当時は精神的にも少ししんどくて、スランプのような状態に陥っていました。ただ、そんな私を支えてくれていたのが、音楽座ミュージカルの創設者である女性の存在でした。彼女の生き方や考え方に深く共感していて、“この方と一緒にお仕事がしたい” という気持ちが、私の原動力になっていたのです。音楽座ミュージカルの作品はまさに、彼女の人生観そのものが表れているように感じていました。
だからこそ、彼女が2016年に亡くなった時に心の糸がプツンと切れてしまって……。それまで保っていた気力や原動力をすっかり失ってしまったのです。結果として、2017年は1年間、舞台の仕事をお休みすることにしました。“何とかしなければ” という思いはずっとありながら、心が追いつかないような状態が続いていたのです。そんな中、現在の音楽座ミュージカルの代表に “ロンドンに留学に行ってみたい” と相談をしたところ、“ぜひ行っておいで。外の世界を見るのも、ちゃんと休むことも大切だから” と、快く背中を押してくださったのです。」
──その方は、どのようなお気持ちで応援してくださったのでしょうか?
「きっと、すべてわかってくださっていたのだと思います。私が音楽座ミュージカルに所属していたい気持ちはあるけれど、心の火が消えかけていることも。その上で、“行っておいで” と言ってくださったのだと思います。
当初はロンドンを考えていたのですが、音楽座ミュージカルのグループ会社にある教育部門の方々が以前からよくニューヨークに来ていた関係もあり、いざという時に頼れる人がいるのはニューヨークの方だとアドバイスをいただいて。結果的に、ニューヨークに行くことに決めました。そうして2018年にニューヨークに渡ったことが、私にとって大きな転機となりました。」
ニューヨークでの自分探し。いただいた「勝負しないなら、帰ってよ」という厳しい言葉

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──休養中のニューヨークではどのように過ごしていたのですか?
「このときは、観光ビザを利用して2か月間滞在しました。当時のアメリカはまだ外国人の入国への緊張も緩やかで、長期の滞在のハードルが低かったのだと思います。ニューヨークでの生活は毎日が本当に新鮮で楽しく、仕事を休んでいることもあって、時間もあり、日々の出来事すべてが刺激的に感じられました。ただ、その一方で、現地で出会ったさまざまな方々と話をしていくうちに、自分の中に劣等感が芽生えていることに気づいたのです。」
──劣等感とは?
「ニューヨークで活動しているアーティストの方々は、皆さんそれぞれが自分の言葉で、自分の作品やオリジナリティのある活動について語っていました。そんな話を聞く中で、私は音楽座ミュージカルというオリジナル作品を創り続けている環境に身を置きながら、自分自身では何かを生み出したり、形に残したりしていないなと気付いたのです。自分は用意されたレールの上を歩いているだけで、“この作品、この役が自分の代表作だ” と言えるようなものを生み出せていないのだと実感し、ショックを受けました。」
──そのアーティストの方々とはどこで知り合ったのですか?
「音楽高校時代の同級生や先輩がニューヨークで活動していたり、グループ会社で通訳をしていた方々が色々な人を紹介して下さりました。また、自分でもFacebookで調べたりして、日本人コミュニティのイベントに積極的に参加しました。正直なところ、“行きたくないな” と感じる場にも意識的に出向くようにしていました。どんな人が来ているのかもわからない集まりでしたが、行けば確実に知り合いができるという確信があったからです。自分自身の居場所を作るために、積極的に動いていました。
そうしてアーティストの方々と出会い、さまざまな気付きを得ていく中で、ニューヨークに来て2か月ほど経った旅の終わり頃、とある日本人の美術系アーティストの方と食事をご一緒する機会がありました。 その時、その方から “あなた、何をしにニューヨークに来たの?” と尋ねられたのです。
私は、“こういう経緯があって……まあ、自分探しですかね” と答えました。すると、“私たちはニューヨークで勝負しているの。自分探しだけで勝負しないんだったら、あなたここにいないで帰ってよ” と言われたのです。」
──厳しいお言葉ですね
「とても厳しい言葉でしたが、今となってはその真意がよくわかります。正直なところ、当時の私は少しイラッとしていましたが、それでも “確かにその通りだ” と思ったのです。結局、日本では音楽座ミュージカルという素晴らしい環境に身を置かせていただき、メインキャラクターや主演など、大変ありがたい立場で舞台に立たせていただいていました。ですが、自分は本当に “勝負” していたのだろうか?人生最大の挑戦を、本気でしていたのだろうか? ───そんなことを深く考えさせられました。
ある意味で、その方の言葉は私にとっての “ギフト” となり、その思いを胸に日本へ帰国しました。そして、帰国後すぐに出演させていただいたのが、アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』を原作とした『SUNDAY(サンデイ)』という作品でした。世界初演となる舞台で、オリジナルキャストの主人公を演じさせていただき、この作品で文化庁の賞をいただくことができました。
あのときの言葉を、私はしっかりと受け止めたいと思っていました。そして、“次にニューヨークへ行くときは、自分探しではなく勝負をしに行こう” と決めていました。だからこそ、2022年に文化庁の研修員として再びニューヨークを訪れたときは、“今度こそ絶対に勝負する” と決意を持って臨んだのです。」
“人生を通して自分は何を成し遂げたいのか” を突き詰め、覚悟をしてニューヨークへ

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──文化庁の海外研修はかなり高い倍率だと伺っています。どのように選抜に至ったのでしょうか
「文部科学省の新進芸術家海外研修制度には、実は2度応募しています。初めて応募した際は不合格となりましたが、その時に音楽座ミュージカルのチーフプロデューサーや先輩方に応募書類を見直していただいたところ、“相手に好かれようとしていない?” というアドバイスを頂いたのです。振り返ってみると、たしかにその時の応募動機は、自分の中でもどこか薄っぺらく、説得力に欠けていたように思います。
そこで改めて “なぜ私はニューヨークに行きたいのか?” という問いと向き合い、自分の心の声に耳を傾けてみました。そうして思い出したのが、2018年に2か月間ニューヨークを訪れた際に出会った、元ミュージカル女優の方の存在でした。その方はかつてトニー賞助演女優賞にもノミネートされた経歴を持ち、私が出会った当時は “Acting the Song(演技しながら歌う)” レッスンの先生としてご活躍されていました。その方が歌った『ミス・サイゴン』の代表曲『命をあげよう』には、心から深く感動したのを覚えています。80歳近い年齢でありながら、まるで17歳の少女のような瞳を輝かせて歌う姿に、“私もこんな女優になりたい” と思ったのです。2度目の応募では、その出会いと想いを志望動機として正直に綴りました。」
──自分がどうなりたいのかを明確にしたのですね
「また、私が携わってきた “オリジナルミュージカル” という分野に対しても、もっと深く向き合わなければならないという思いがありました。誰かの真似のような演技や歌ではなく、“私自身のオリジナルとは何か?” という問いに答えを見つけたい。そして、ニューヨークで出会ったアーティストさんたちのように、自分の人生がにじみ出るような表現ができるようになりたい──そんな思いを込めて志望理由をまとめました。その結果、ミュージカル部門の研修生として選出いただくことができました。
これから同じ制度への応募を目指す方々には、“受かりそうな理由” ではなく、“人生を通して自分は何を成し遂げたいのか” を突き詰めて考えることがポイントになるのではないかと思います。」
インプットだけなら誰でもできる。私にしか出来ないことをやろうと切り替えた

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──研修に行くことが決まり、学生ビザではなくアーティストビザを取得したのはなぜでしょうか?
「私がニューヨークで学びたいと思っていたことは、“歌や演技の技術を学ぶこと” というよりも、“オリジナルミュージカルを創作する過程” や “自分自身のオリジナルを見つけること” でした。そうした目的を考えると、学校に通うための学生ビザよりも、現場で仕事をしながら学べるアーティストビザの方が適していると判断しました。アーティストビザは、学生ビザに比べて審査基準が厳しいと言われていますが、私の場合は選考結果が出てから渡米までに比較的時間があり、その期間を使って挑戦することにしました。
どのビザを取得するべきかは、その人が何をどのように学びたいかによって異なると思います。学生ビザでスクールに通えば、体系的なカリキュラムのもとでしっかりと学ぶことができますし、アーティストビザであれば、実際に仕事をしながら現場で多くのことを吸収することができます。」
──実際にニューヨークへ留学して、どのように過ごしていましたか?
実際に動いてみなければ、何が必要で、どのように進むべきかは分からないと思っていたため、レッスンを受けるという最低限の準備以外には、細かなプランを立てずに渡米しました。
まず最初に意識していたのは、友人や、困ったときに助けてくれる知人を作ることでした。最初の1か月は、できるだけ多くの方にお会いし、人とのつながりを広げることに努めました。紹介を通じて新たなご縁が生まれ、様々な分野の方々とお話をすることができました。日本では19歳の頃から朝から晩まで稽古に明け暮れていたため、正直、プライベートの友人はほとんどいませんでした。ニューヨークでは時間的な余裕もありましたので、この機会に積極的に人と会おうと思い、お誘いがあればできるだけ足を運ぶようにしていました。そうして繋がったご縁が、今では自分にとって大切な財産になっていると感じます。
ただ、最初はホームシックにもなりました。毎日英語に囲まれ、常に言語的な緊張を感じていたのか、ふと “最近、笑っていないな” と思うようになったのです。そんな時には日本のお笑い番組を観て、自分をリラックスさせていました。芸人さんたちの存在にとても救われたのを覚えています。」
──細かい計画が無かったとはいえ、行動に筋が通っているように感じます
「最初の半年間は、“とにかくインプットをしよう” と決め、休みなく動き回っていました。ブロードウェイのミュージカルをたくさん観劇したり、さまざまなジャンルのレッスンを受けたりして、自分の中に多くの刺激を取り込んでいきました。
レッスンは、クラシックやポップス、ジャズ、クラシックバレエ、ジャズダンス、シアターダンスなど、多くの先生方から学びました。また、ニューヨークだけでなく、文化庁の許可を得てロサンゼルスまで足を運び、以前から注目していたアクティングコーチのレッスンを2カ月間受ける機会にも恵まれました。
ただ、半年ほど経った頃、インプットだけなら私でなくても誰でもできるなと思ったのです。なのでインプットだけするのはもうこれで終わりにしようと思い、そこから半年間は人前でパフォーマンスをしようと決め、オーディションや出演のチャンスがあれば、できる限り応募するようにしました。日本でも結局、お金をいただいて、責任を持って人前でパフォーマンスをすることこそが、一番自分を成長させてくれるのです。アウトプットを通して初めて、自分の成長や変化を実感できるのです。だからこそ、私は “アウトプットをしないままでは帰りたくない” と強く思っていました。
そこでミュージカルのオーディションもいくつか受けましたが、やはり英語がネイティブでないことのハードルを感じる場面も多くありました。そこで、“自分が一番自信を持てるものは何か?” と考えたとき、まずは “歌” に絞って活動を始めました。食事をしながら音楽が楽しめるようなライブステージをネットで探したり、友人から紹介してもらったりして、レジュメを送り、出演の機会を得ていきました。」
──海外でステージに立つことへの怖さは無かったのでしょうか?
「ぶっちゃけ私の事なんか誰も知らないので(笑)失うものは何も無い!と思ってやっていました。」
──菜々さんが現場を学ぶ際にお世話になったというミュージックデザイナーのヒロ・イイダさんとはどこでお知り合いになったのでしょうか?
「実は、もともとご縁があったわけではなく、私から直接ご連絡をさせていただいたのがきっかけです。2019年に音楽座ミュージカルのメンバーとしてニューヨークに行く機会があり、その際に “現地で第一線で活躍されている日本人の方にお会いしたい” と思い、以前から存じ上げていたヒロさんに連絡をさせて頂いたのです。SNSで “初めまして……” といった感じで(笑)すると、すぐにお返事をくださり、当時ヒロさんが関わっていらっしゃったブロードウェイミュージカル『ミーン・ガールズ』のバックステージを案内してくださったり、オリジナルキャストとして出演されていた高橋リーザさんをご紹介くださったりと、大変手厚く対応していただきました。
文化庁の研修が決まる前から、そして決定後もヒロさんには色々な相談をさせていただきました。アメリカで活躍されている方々とお話をしていて感じるのは、私のようなぺーぺーの存在にも本当に温かく接してくださるということです。ヒロさんも同じ日本人同士、応援してあげようと思ってくださっているのかなと感じて、とても有難く思いました。
研修中も、セントルイスで上演されていた宮本亞門さん演出の『カラテ・キッド』のトライアウト公演を見せていただいたり、ニューヨークに戻ってからも『キンバリー・アキンボ』のリハーサルを見学させていただいたりと、現場での貴重な学びをたくさんいただきました。ヒロさんがいる場所には “行きます!” とすぐに飛んで行きました。お金のことは後でなんとかしよう、と割り切っていました。本当にありがたい経験でした。」
ブロードウェイは、ロングランの作品より “生きている” と感じられる新作のオリジナル作品が好き

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──ここから少しニューヨークやブロードウェイのお話を聞かせていただきます。ニューヨークの好きなところはどんなところですか?
「ニューヨークに住む人々の、飾らない率直な性格がとても好きです。建前が少なく、人と人との距離が近いように感じます。ニューヨークでステージに立っていても、客席から大きな声援をいただけて、観客の皆さんに受け入れられているという実感があります。お客様自身が舞台を楽しみに来ていて、決して評価してやろうという堅い雰囲気が無いところが好きです。“お金を払っているのだから、良いものを見せてくれなければ……” というプレッシャーはほとんど感じられず、“どんなことが起きても私たちは楽しみます!” という空気に満ちているのです。その温かさがあるからこそ、役者たちも自然体で舞台に立てるのだろうと感じています。」
──ブロードウェイミュージカルの好きなところはどんなところですか?
「オリジナル作品が多いことによって、舞台が “今、ここで生まれている” と実感できる点が魅力です。つい役者の演技に目がいってしまうのですが、特にオープニング直後のオリジナル作品では、彼らが舞台上で “演じている” というより、“生きている” と感じられる瞬間が数多くあります。
というのも、オリジナルキャストの方々は、“この作品がどのように評価されるかは自分たちにかかっている” という重責を背負いながら、誰も演じたことのない脚本と向き合い、それぞれの “これを伝えたい!” という想いを舞台上で全身で表現しているのです。その想いが細胞のひとつひとつからあふれ出ているような感覚がたまらなく魅力的です。ブロードウェイは、そうした表現を目撃できる、贅沢な場所なのです。
そうしたオリジナル作品の良さに魅了されていることもあり、私はロングラン作品よりも、開幕したばかりの新作を観劇するのが好きです。ロングラン作品では、どうしても役者が何代目かの方で、これからも作品が続いていくという安心感の中で演じているように見えてしまうことがあります。もちろんロングランにはその良さもありますが、もし余裕があるなら、日本から来る旅行客の皆さまにも、開幕直後の新作ミュージカルを観劇して、役者たちの “心” や “息遣い” を感じていただきたいです!」
──好きなブロードウェイミュージカルを教えてください
「難しい質問ですが……やはり強い衝撃を受けたのは『MJ・ザ・ミュージカル』です。私はオリジナルキャストのマイルス・フロスト(Myles Frost)さんが主演されていた時に観劇したのですが、その完成度の高さに驚きました。
それまでは、演劇には “余白” があることが素敵だと思っていました。演じる側が完璧に詰め込んだ演技をすると、観客に想像の余地を残せなくなるため、むしろ引き算のある表現の方が好みだったのです。ですが『MJ』は、すべてが緻密に構成されていて、隙のない完璧な作品だったのです。その隙のなさに、“こういうアートもあるのか” と心を揺さぶられました。
ブロードウェイ観劇のおすすめ時期は、トニー賞の発表前です。6月の授賞式直前、どの作品が受賞するか分からない、あの “ギラギラ” とした時期に観劇できるのが理想だと思います。」
──“トニー賞前の新作ミュージカルを観るべき” というのはブロードウェイが相当好きな方のコメントですね
「舞台は生き物ですから、余計に観るタイミングによる違いを感じます。ちなみに、明日はヒロ・イイダさんも関わっていらっしゃる『グレート・ギャッツビー』を観劇予定です(※取材は2024年10月)。作曲家のジェイソン・ハウランドさんとは、私も日本で上演した『生きる』(企画制作:ホリプロ)というミュージカルでご一緒させていただいたのですが、“明日観に行きます” と連絡したところ、“他州にいる予定だったけど、たまたま明日指揮することになったよ” と返信をいただきました!そうした温かなやりとりができるのも嬉しく、ニューヨークの好きな所だなと感じます。(後に、これは菜々さんのためのサプライズだったと知ったとのこと!)
役者としてのこれまでの私は、考えすぎてしまうタイプでした。台本と真剣に向き合い、嘘がないよう完璧に演じようと突き詰めてきました。ですが、こちらの役者の方々が、本番直前まで和やかに会話し、舞台に入る瞬間に自然に切り替える姿を見て、大きな学びを得ました。
もちろん、役を深く追求することも大切ですが、あまりに詰めすぎてしまうと、演じている時に逆にリアリティを失ってしまうというか。以前の私は、舞台上で “今夜の夕飯、何にしようかな” なんて考えてはいけないと思っていました。でも、もしかしたら演じているキャラクター自身も、この台詞を言いながら “あー、今日は洗濯しなきゃな〜” と思っているかもしれない。つまり、そういう “心の余白” を持っている方が、むしろリアルに映るのだということを、ニューヨークで実感しました。まさに “遊び心” = “Play(演劇)” だと感じています。」
──役者さん目線で劇場の条件って何だと思いますか?
「やはり、ブロードウェイの音響技術は素晴らしいと感じます。たとえば『サンセット・ブルーバード』の雨のシーンでは、客席後方のスピーカーからも雨音が流れ、まるで音に360度囲まれているような没入感がありました。作品ごとに専用の設備を一から整えることができるのは、ブロードウェイならではの贅沢さですね。」
ニューヨーク研修中の最大の挑戦『1から作るソロコンサート』

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──研修のお話に戻りましょう。ニューヨーク滞在中で、一番チャレンジしたと感じることは何ですか?
「帰国の半月前に、自分のソロコンサートを開催したことです。1年間ニューヨークで過ごしてきた中での集大成として、“自分がどれだけ成長できたか” を実感できるものを形にしたいと思い、ゼロからコンサートを企画しました。すべて英語でのコンサートで、当初は会場も決まっておらず、集客の見通しも立っていませんでしたが、“とにかくやってみよう” と覚悟を決めて動き出しました。
会場も直接交渉に行きました。ミュージカル系の方々がライブをやっているような会場があり、その担当者の方にこんなことをやりたいんですと熱弁したところ、会場を見せてくださり、その場所に決めました。集客はどうしようと困っていたところ、住んでいたお家のオーナーさんが “企業に協賛を呼びかけると良いんじゃない?” とアドバイスをくださったのです。オーナーさんは中南米系の方で、自分自身も昔、同じような経験をされていたそうです。それを聞いて “私もやってみよう” と思い、色々な企業にお話をしに行き、協賛のスポンサーさんを集めました。地元広島のオタフクソースさんもその1つでした。
また、所属していた音楽座ミュージカルの方々も “せっかくだからファンクラブ向けに配信したら?” と協力してくださり、徐々に話が大きくなっていく感覚がありました。折角だからとポートフォリオにした方が良いかなと思い、テレビ局さんやメディアの方々にも取材をしていただき、広島のテレビの特番も作っていただきました。コンサートの内容に関しては、“このステージを通して何を伝えたいか” をとても大切にしていました。友人たちに協力してもらい、英語のMCを全部考えて、発音も一つひとつ丁寧に直してもらって、本当に一生懸命に準備をしました。」
──まさに自分で動いて作っていったのですね!
俳優としてだけでなく、“プロデューサー” という視点も持っていたことが、この挑戦において非常に役立ちました。所属していた音楽座ミュージカルでは、代表が決めた演出の指示を聞くだけでなく、皆でコミュニケーションを取りながら作品を創っていくというスタイルをとっており、プロデューサーという肩書きもいただいていました。また、作品を売り込みに行くことも、日本での活動の一環として経験させていただいていました。そうした今までの経験のすべてが、このコンサートという一つのプロジェクトに結びついたと感じています。
元々、脚本・作詞作曲・主演のすべてを手がけた『ハミルトン』のリン=マニュエル・ミランダを知ってから、自分の思いや世界観を自ら体現する “クリエイター兼アーティスト” という存在に憧れてきました。今回の挑戦は、そんな目標に向けた小さな一歩になった気がして、嬉しかったです。
結果として、ご縁があった多くの方が足を運んでくださったり、お家のオーナーさんが何十人もの方を連れて来てくださったりして、チケットはソールドアウトでした。本当にあたたかい公演となり、感謝でいっぱいでした。積み上げてきた経験とご縁が重なり、一年間の集大成のようなコンサートを実現できたことは、大きな挑戦だったと思います。」
“生まれ変わる” と言う気持ちで体当たりでチャレンジした1年。自信無さそうに過ごしては勿体ない

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──ニューヨークに来て、やって良かったことはありますか?
「考え方の話になるのですが、“生まれ変わる” というマインドセットで行動していたのは、とても良かったと思います。日本にいると、“謙虚でいなければ” とか、“私が私が、と前に出るのは良くない” と考えてしまいがちですが、せっかくニューヨークに来たのだから、思い切って “アメリカ人になったつもり” で挑戦しなければ意味がないと感じていました。
ニューヨークに来た当初は、パンデミックが終わったばかりで、アジア人に対する差別やヘイトも残っていましたから最初は怖がっていて、ニューヨークに住んでるというより、“来させてもらっている” とか “ニューヨークに訪れてる” みたいな感覚だったのです。実際、見知らぬ人に “ここはあなたの住む場所じゃない、出て行け!” と暴言を吐かれたこともあります。
そんな経験をするうちに、多分これは私が引き寄せてるな、と思ったのです。自信なさげにしていたら駄目だなと気が付いて、“私はここに住んでいて、ここで勝負してます!” というマインドに変えました。そうしたら、差別的な言葉をかけられることもなくなりました。
結局、自分の “心の在り方” 次第なんだと実感しました。せっかくアメリカでチャレンジするのなら、英語ができないから……とか自信の無いところから抜け出し、過去ではなく未来に繋がる行動をするべきだなと考え方を変えていきました。」
──素敵なマインドセットですね
「あとは、助けてくれる人が本当に多かったです。どれだけ心を強く持っていても、やっぱり実際に行動に移すのは難しくて、辛いことの方が多い。差別的な暴言を吐かれた時も、たまたま隣にいた方が私の代わりに強く言い返してくれたことがあって。そんな風に、見捨てないで助けてくれるニューヨークの人たちに救われることも多かったです。」
刺激的なニューヨーク滞在を終えてぶつかった壁。留学をイベントにしないために必要な心構え

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──研修を終えて日本に帰ってから、何か感じたことはありましたか?
「ニューヨークでの一年は、毎日が本当に濃密で、刺激にあふれていました。だからこそ、日本に帰った後にどう自分をアップデートしていくかが肝心だと思いました。ニューヨークで学んで、帰国して、学んだことを披露して、その先はどうするのか。“その先で、自分は何をしたいのか?” “またニューヨークに行くにはどうすればいいのか?” と、次にどうすれば良いのか考えて生活していくべきだと感じました。
正直、私は帰国後に目標にしていた舞台たちを終えて、燃え尽きてしまった部分もあって……。だから、自分が目指すべきものを見つめ直そうと、今回、再びニューヨークに戻ってきました。
好きな作品に出演させていただいたり、やりたいことはたくさんやらせてもらったけれど、そのぶん “これがゴールかも” と思うような山を登り切ってしまって、その先の道が少し見えなくなってしまっていたのだと思います。だからこそ、もう一度ここニューヨークで、“これからの自分が何を目指すのか” を見つけ直したくて戻ってきました。」
──なるほど。ニューヨークでの経験の、その先が肝心なのですね
「ニューヨークでの生活はエキサイティングで楽しいですし、生まれたての子供が言葉を覚えた時のような達成感もあって、まるで花火のようにあっという間に日々が過ぎてしまいます。だからこそ、その経験を “何に活かすか” という目的を見失ってはいけないですね。そうでないと、ただのイベントになってしまうのです。」
──ニューヨークでの経験は、自分をどう変えたと思いますか?
「“誰かが価値付けしたものをやりたいと思わないようにしよう” ということです。誰かが決めた “成功” とか “女優としての正解” を目指すのはやめようと思いました。これまでは、無意識のうちに “誰かに認められること” をゴールにしていたのかもしれません。でも、誰かの正解を追いかけても満たされないと気付いたのです。
ちょっと生意気に聞こえるかもしれませんが、この世で誰かがもう成功していることには挑戦したくなくて、それよりも、誰も通ったことのない道を進みたいと思うのです。もしかしたらそれは茨の道かもしれませんが、私はそうやって生きる方が幸せだなと気づくことができました。」
帰国後の活動について。『感動の共有』をさらに追求するため、独立と会社設立を決意
こちらでは、ここまで紹介したインタビューから約8カ月が経った2025年7月にお伺いした、「その後」のお話をご紹介します。

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──研修時のお話をたっぷり伺ってから、早くも8カ月。帰国後は、どのような変化がありましたか?
「思い悩みながら訪れたニューヨークから帰国し、その後は色んなことを行動に移してきました。まず、今年の3月31日付で、約17年間在籍した音楽座ミュージカルを退団し、独立しました。そしてこの8月には、自身の会社を立ち上げ、個人事務所の設立を予定しています。」
──ご自身で事務所を!それは大きな決断ですね
「正直なところ、少し身の丈に合っていないかも……という気持ちもあります。でも、それでも “やろう” と決めたのは、やりたいことが溢れていて、それを形にすることに心からワクワクしたからです。
少し哲学的かもしれませんが……音楽座ミュージカルの創設者の方がよくお話されていた、まど・みちおさんの詩があります。
“りんごがひとつ ここにある
ああ ここで あることと ないことが
まぶしいように ぴったりだ”
当時は、正直意味がまったく分かりませんでした。でも最近になって、ふと腑に落ちるようになったのです。
“私がやりたいこと” は、この世界にはまだ “存在していない” 。けれど、私の心の中には確かに “ある” 。その状態こそが “ぴったり” だと感じるようになったんです。つまり、形になっていないだけで、すでに “ある” のかもしれない────そう信じられるようになったから今だからこそ、進むべきだと思えたのです。」
──そうした思いが、音楽座ミュージカルを旅立つ決意につながったのですね
「音楽座ミュージカルは大好きなカンパニーで、皆さん大好きな人達だったので、正直凄く悩みました。創設者の方には温かい想いをかけていただきましたし、2016年から代表を務められている現代表とは、心の戦友のような関係で、魂をかけて共に歩んできたと思っています。だからこそ、自分が劇団を離れるなんて、考えたこともありませんでした。
でも、ちょうど1年前、地元・広島で『SUNDAY(サンデイ)』の公演が実現した時、なぜかふと、心の奥で “私は次のステージへ進むのだろうな” という予感のようなものがあったのです。その後、劇団とは時間をかけて話し合いを重ね、最終的には力強く背中を押していただきました。辞めたというより、次のステージへ進んだ、という感覚です。
私は、未来永劫───永遠に続くものなどこの世に存在しないと思っています。でも、人とのご縁は不思議なもので、これまで引いてきた線が、未来のどこかで再び交わることもあるでしょう。より成熟し、強く成長した自分で、また大切な方々と再会できる日を楽しみにしています。」
──今後、挑戦してみたいことはありますか?
「自分自身と改めて向き合う中で、私にとって『感動』こそが最も尊いものだと明確になりました。 そして、人生のテーマは『感動の共有』なのだと定まったのです。これは大きな気付きでした。ニューヨーク滞在中、ずっと抱えていた “私は何をしたいのか?” という漠然とした疑問。その答えが、少しずつ輪郭を持ち始めたのです。
感動を生み出したい。この世にまだ存在しない感動を、ゼロから創り出したい。そして、それを多くの人と分かち合いたい。そのために、表現者として舞台に立つことや歌を歌うことは生涯続けていくつもりですし、現在はそれと並行して、会社の経営という新しい挑戦も始まりました。自分の頭で考え、仲間と手を動かし、より良い方向へ向かっていくことが、今はとても楽しいです。」
──ニューヨーク留学から約2年。今の菜々さんには、内からあふれる強さと輝きが宿っているように感じます
「最近の私は、まさに “生命力の塊” のようで(笑)。私が尊敬する俳優さんたちにも共通しているのですが、彼らには生命力がみなぎっているんです。舞台の上で輝くには、役柄が持つエネルギー値よりも、自分自身のエネルギー値が上回っている必要があると思っています。そんな力を持つ方々の “ただそこにいるだけで光を放つ” エネルギーを、夢に向かってゼロから走り出している今、私も少し感じられている気がします。
もちろん、悩みも不安もたくさんありますし、夜中に悪夢で飛び起きることもあります。それでも、“無い” ものを “ある” にしていくこの仕事に、心が踊っています。近々発表になりますが、東京と広島でのコンサートも予定しています。
故郷の広島も、大事にしたいものの1つです。東京・広島・そして海外。この3点を線で結ぶ存在になることが、今の夢のひとつです。この3か所を拠点にしながら、ゆくゆくはオリジナル作品の創作にも挑戦したいですし、次世代の子どもたちに文化・芸術を届ける活動にも関わっていきたい。ワークショップなど、具体的な形はまだ模索中ですが、未来の表現者たちと関わる機会を持ちたいと思っています。」
──素敵です。新しく広がっていく未来に向けて、プロジェクトが動き始めているのですね
「今はまだ形のないアメーバのような状態で、“この指とまれ!” と、仲間や環境づくりをようやく始めたばかりです。実態がないから、“今、何をされているのですか?” と聞かれたら、“何もやっていないですね” とも言えてしまいます。けれど、見方を変えれば、心の中にあるものを形にしようと動いている今この瞬間、“何もやってないけど、実は全部やっている” のだと信じています。
まずはチームのみんなとしっかり “飯を食っていく” こと。そして土壌を作り、またニューヨークやロンドンといった海外でも発信できるような生命力を蓄えていきたいなと思っています!」
海外へ行って、その先で何がしたいのか?軸を決めるとやるべきことが見えてくるはず

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──最後に、海外で活躍したいと願う日本の挑戦者の方へメッセージをお願いします
「まず大切なのは、ご自身が “海外に行きたい人” なのか、それとも “海外で学び、その経験をもとに何かを成し遂げたい人” なのかを見極めることだと思います。“海外に行くこと” そのものが目的になってしまうと、思っていたのと違う現実に直面したときに苦しくなるかもしれません。
私自身、最初は “なんとなく海外なら可能性があるかも” と思っていた時期もありましたが、実際に来てみて実感したのは、“自分は何をしたいのか” “どうなりたいのか”というビジョンを持っている人ほど、チャンスをつかんでいるということです。
具体的な例になりますが、海外でダンスで勝負したいのか、演技を磨きたいのか、演出家としての道を歩みたいのか。もしブロードウェイの舞台に立ちたいのであれば、言語の壁があるからこそダンスを極めるという選択肢もありますし、テクニカルな専門職で舞台に関わりたいのであれば、現地の大学に進学する必要が出てくるでしょう。
“自分はどうなりたいのか” によって、進むべき道は大きく異なります。ですから、ぜひその問いと向き合い、答えを持ってから挑戦していただきたいと願っています。もし、今は明確なものがなかったとしても、その問いを持って海外に挑戦していただくことをオススメします。」
──また、ミュージカルファンの菜々さんから、ブロードウェイに関心のある日本のミュージカルファンの皆さまへメッセージをお願いします
「ブロードウェイの大きな魅力の一つは、多様な人種・バックグラウンドを持つ方々が出演していること、そして何よりオリジナルの作品を “オリジナルの状態” で観られることにあると思います。
また、もし “英語が分からないから……” という理由でブロードウェイでの観劇をためらっている方がいらっしゃるのであれば、“まずは一度、観てみてください!” とお伝えしたいです。私自身、ブロードウェイでの観劇を通して、『言葉以外のものに、心が動かされるのだ』と気づかされました。その作品の “バイブス” や “質の高さ” というものは、言語を超えて、ダイレクトに、ズドーン!と心に響いてくるのです。
日本で観る演劇とはまた異なる感動が、きっとそこにはあります。ブロードウェイには、人生を変えるほどの体験が待っていると、心から信じています。ぜひ、その一歩を踏み出してみてください!」
インタビューに添えて
菜々さんが研修中に出会ったたくさんの人の中に、たまたま弊社の代表もいたというご縁があり、今回の滞在中にもわざわざオフィスまでご挨拶に来てくださいました。そのまま熱い話が弾んで……そんな流れでこの度のインタビューが実現しました。「ニューヨークへ演劇留学」という、憧れを感じるプロジェクトを実際に経験した人のリアルなお話は、これから挑戦してみたいと思っている方にとってすごく大きなヒントになるはず。ということで、かなり突っ込んだ内容となったと思います。
太陽のような笑顔と、歯切れのよい語り口。こちらの気持ちまで明るくするほどエネルギッシュな菜々さんですが、何度も心の火が消えかけるような経験をされていて、その度に自分自身の声と向き合ってきたと言います。だからこそ、ニューヨークでの限られた1年間を、常に「自分はどうなりたいのか」という本質を考えながら行動することが出来たのでしょう。何も見込みが無いところから、ソロコンサートを作り上げたエピソードには、胸が熱くなりました。
「ニューヨーク滞在を、ただのイベントで終わらせないことが大切なんです」。その言葉通り、今もなお、前へ進もうと情熱を燃やし続ける菜々さんは、これからもたくさんの決断をし、挑戦を重ね、人々に希望と活力を届けてくれるはずです。新事務所の立ち上げという挑戦も始まったということで、これからどんな景色を切り拓くのか楽しみでなりません。
そんな彼女の言葉が、誰かの「一歩」のきっかけになりますように。素敵なお話を伺えたことに感謝致します。
著者 今田明香
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