
ヒロイイダさん。ご自身のスタジオにて
今回のインタビューでは、ブロードウェイの新時代を創り上げた、現在ブロードウェイで最も注目されているミュージックデザイナー、ヒロ・イイダさんの物語をお届けします。
ヒロ・イイダ(Hiro Iida)さんは、エレクトロニック・ミュージック・デザイナーという肩書きで、現在のブロードウェイの音作りの基盤を作った方です。シンセサイザーといった電子楽器を使って劇中の音を作り出し、数多くの作品でプログラムを制作。今やブロードウェイの音楽制作に欠かせないトップランナーとして業界で引っ張りだこの存在です。
ヒロさんが手がけたブロードウェイミュージカルは、『MJ ザ・ミュージカル』『グレート・ギャッツビー』『ミーン・ガールズ』『トッツィー』『ワンダフルワールド』『王様と私』『シュッレック』『ダイアナ』『スパイダーマン』『ビューティフル』『バンズ・ヴィジット』『キンバリーアキンボ』など数えきれません。その技術を伝道すべく、日本のカンパニーにも参加。『キングアーサー』『デスノート・ザ・ミュージカル』『生きる』など多くの作品の音作りを手掛けています。
ブロードウェイにおけるヒロさんの凄さは、”ブロードウェイ界の大谷翔平” という表現に当てはめると分かり易いかもしれません(私が勝手にそう表現しています)。日本人のヒロさんが、世界基準の技術を持って世界の第一線で戦っている姿は刺激になりますし、ヒロさんの活躍を知ることでよりブロードウェイが楽しく見えるはずです。今回は、世界中を飛び回ってご活躍されているヒロさんに貴重なお時間を頂き、インタビューをさせて頂きました。
前編ではヒロさんの経歴、ブロードウェイでの仕事について紹介します。ブロードウェイの楽しみ方や見どころを語って頂いた後半はこちらからお読み頂けます。
天地がひっくり返るような衝撃だった “シンセサイザー” という楽器との出会い

ニューヨークのスタジオに並ぶ新旧様々なシンセサイザー
──シンセサイザーを好きになったきっかけを教えてください
「シンセサイザーとの出会いは小学生の時です。70年代の当時、音大を目指していた姉からもらった冨田勲さんの『月の光』というアルバムがきっかけでした。冨田勲さんはシンセサイザーのパイオニアの方で、『月の光』はドビュッシーの『月の光』という曲をシンセサイザー化した彼のファーストアルバムでした。そのレコードのジャケットの裏に、当時のシンセサイザーの写真が映っていて、それを見てすごい衝撃を受けたのです。(検索すると、通販サイトの画像で見られます。確かにこれはカッコいい…!)
天地がひっくり返るような衝撃でした。今までのクラシック楽器じゃない、その最先端の楽器が凄くかっこ良く映ったのです。今でこそシンセサイザーの音は何の抵抗も無く人々の耳に入っていますが、当時はこの楽器からどんな音がするのかも分からない状態だったので、アルバム1枚が全部 “とてつもなく新しい音” でした。
ちょうどその頃、当時まだ大阪の一企業だったローランド(電子楽器メーカー。1973年に初の “国産” シンセサイザー『SH-1000』を発売)が東京にショールームを作り、そのショールームでシンセサイザーを触らせてもらったり教えてくれるらしいという情報を父親が仕入れてきて、そこに通うようになりました。それが8歳とか9歳の時。日曜日に塾でテストを受けるご褒美に、帰りに秋葉原のショールームへ行き、シンセサイザーを教えてもらう日々でした。芸大の大学院生やプロで音楽をやっている方たちに混ざってシンセサイザーを学んで、まだ小さかったので感覚的に、身体で音作りを覚えていきました。当時僕はチェロもピアノも習っていましたが、特にシンセサイザーで作る音に夢中でした。」
──そんなに小さな頃からシンセサイザーに触れていたのですね
「そうですね。ただ、やはり高校を出る時には理系へ進むか音楽の道へ進むか迷いました。”諦めていいのか?” という担任の先生の助言もあり、音楽の道へ進むことにしたのが高校3年生の時。どうせやるならシンセサイザーの勉強をちゃんとしたかったので、沢山調べた結果、ボストンのバークリー音楽大学(ニューヨークのジュリアード音楽院と頂点を二分する『世界最高の音楽大学』)に電子音楽を学べるコースがあるというので留学を決めました。
今もそうなのですが、日本には4年制大学で電子音楽をアカデミックに教える場所も、教える人もいなくて。それで自然とアメリカに留学するということになりました。ヨーロッパは電子というよりクラシック音楽の本場なので、やはり行くならアメリカでした。
高校を出て、半年くらい英語の勉強をしてから留学をしました。英語の勉強は、同じ町内に住んでいたアメリカンスクールのアメリカ人の教員夫妻にお願いして、会話の勉強をさせて頂いていました。今までの受験英語から会話重視の、いわゆる “生きた英語” の勉強に1から切り替えて、TOEFLの勉強に集中し、ある程度スコアが取れるようになるまで日本で頑張りました。」
最高の環境と師匠に恵まれたバークリー生活。ただ、最初の2年間は学ぶことが無かった

音を録音して、トラックを作る作業
──バークリー音楽大学ではどのような勉強をしていたのでしょうか?
「バークリーに入った年、まさかのその年から希望していたエレクトロニックミュージック課が無くなったと知らされる、という事件がありました。要するに、電子音楽の技術がどんどん新しくなっていて、教育が追い付かなくなっていたのです。なので最初の年は英語の勉強をして待っていることにしました。とはいえ、コースがなくとも種類豊富なシンセサイザーの設備は学校に残っているわけで、僕の後の恩師になるDavid Mash教授が僕の熱意を汲み取ってくださり、”シンセサイザーのラボに毎日遊びに来て良いよ” と提案をしてくださったのです。なので、1年目は英語の勉強をしつつ、ラボでシンセサイザーを自由に勉強することができました。」
──様々なシンセサイザーが揃ったラボに通い放題とはさすがバークリーですね
「バークリーでの電子音楽の座学に関しては、教室にいる意味が無いくらい新しく学ぶことが無かったのですが、ラボにある機材のラインナップは見事なものでした。教育機関ですので、ただ流行りのものを買っているということではなく、カリキュラムのことを考え抜かれた機材が揃っていて、更にそこで学部長である恩師が直々に教えて下さり、本当に電子音楽のコアの部分を学べたということは物凄くラッキーでした。
“座学に関しては教室にいる意味が無い”、というのは、1年目~2年目の授業の内容は僕が8歳から13歳までローランドのショールームで習っていたことと同じ内容だったからです。2年目から新設されたシンセサイザーのコースに進みましたが、シンセサイザーの基礎で新しく学ぶことはありませんでした。全て小学生の頃に学んだことでしたから。なのでテストアウト(飛び級)のテストを受けて、でも新しいコースなので飛び級した先のクラスがまだ準備されていないから、ラボでシンセサイザーをいじる。次の学期になって、またテストアウトをする。その先のクラスが無いためラボでまたシンセサイザーを….その繰り返しだったのです(笑)」
──世界のバークリーで「学ぶことが無い」とは凄いですね。通学した価値はあったのでしょうか
「はい。バークリーに行った価値は十分にありましたし、恩師のDavid Mashには卒業後も色々と仕事に繋がる紹介をして頂いたりもしました。Davidは今のバークリーの “音楽的な技術を教える学校” という形を作った人で、最終的にバークリーの副学長にまでなって引退されたのですが、今でももちろん交流があります。」
電子音楽に人種の違いは関係ないと気付いた。だからこそ、基礎を固めた

自社スタジオ「Strange Cranium Studios」にて。ビジネスパートナーのビリー・ステインと
──ヒロさんはどのようにブロードウェイで通ずる世界基準の技術を伸ばしたのでしょうか?
「バークリーに入って一つ感じたのは、シンセサイザーや電子音楽って、アジア人だとか日本人だという人種の違いは関係がない音楽だということです。例えばゴスペルやカントリーミュージックといった人種と密接に関係してる音楽は、どんなに技術があったとしてもその音楽に人種としてのキャラクターが合ってない場合はどうしても区別をされてしまうのです。マイケル・ジャクソンのミュージカルにアジア人が入れないのがいい例です。今はダイバーシティがうたわれていますが、単純に黒人だからゴスペルが上手く見えるとか、リズムがいいとか、そういう人々が根強く持つ先入観もある。それは、差別という意味ではなく、人々が持つイメージなのです。
一方、電子音楽=エレクトロニックミュージックというのは技術が比較的新しいのもありますし、基本的に使っている物が工業製品なので、ある程度のお金があれば、何千ドルとかでプロもアマチュアも同じ楽器を買えるのです。だから同じ予算で僕と同じセットを組むことは誰でもできるんですよ。スタートポイントが一緒というところは、他の楽器、例えば製品によって音が大きく変わるヴァイオリンやピアノとは異なるところなのです。」
──言われてみれば、人種や経済力の違いが大きく影響しない分野なのですね。逆にどこで差が付くのでしょうか?
頭脳の使い方や、脳みそだけで差が出る世界なのです。そこに、日本人やアジア人であるというハンデは一切ないから、僕も精神的にポジティブに楽器に向き合えます。これは日本にいたら気が付かなかった強みでした。
実際、シンセサイザーで世界的に活躍している人はイギリス人、アメリカ人ではない人が多い傾向にあります。日本の冨田勲さんやYMO、喜多郎さん、ドイツのクラフトワーク、フランスのジャン・ミッシェル・ジャール、ギリシャのヴァンゲリスとか。これは、非英語圏の人間でもトップの世界に入っていけるという証拠です。この「アメリカでも勝てる」という自信やスタートポイントが同じというところは電子音楽の良さだと思うのです。
さらにお話すると、シンセサイザーにおいてはヤマハ、コルグ、ローランド、カワイという日本メーカーのおかげで日本人であることのメリットも大きいくらいなのです。日本に帰れば、ローランドの開発の方々とやコルグの開発の人たちなど楽器を作ってるメーカーの方々と日本語でコミュニケーションを取れますし、そこは技術大国日本に生まれたメリットだなと思っています。」
“雲の上を歩いているような音を作って”と言われてどう脳みそを動かすか

ミュージカル『グレートギャッツビー』の一場面 (Photo by Production)
──なるほど、そんな平等なスタートラインからヒロさんが頭一つ抜けた理由は何だったのでしょうか?
「僕の中で一番生きているのは、やはり師匠のDavid Mashの下で音作りのコアを学べたことです。よく音作りを自動車の乗り方に例えるのですが、例えば車の運転というのは、トヨタの運転の仕方、ホンダの運転の仕方を勉強してるわけではなく、車の運転というコアの部分を勉強するから、どんな車でも使えるわけです。そうじゃないとレンタカーは借りられないですよね。
それと同じで、コアを学ぶ、という学び方をしないと、シンセサイザーで音は作れないのです。だからAという楽器の使い方しか知らないと、Bという楽器が出てきたときに、同じ能力を発揮出来ない。師匠のDavid Mashが気付かせてくれたのは、A、B、Cそれぞれの勉強じゃなくて、ABCに共通するコアの部分の勉強をすれば、あらゆる音に応用できるということでした。それはバークリーで凄く伸びた部分だと思います。」
──突っ込んだ話になりますが、シンセサイザーのコアとは具体的にどんなことなのでしょうか?
「シンセサイザーにおけるコアの部分というのは、音の足し算、引き算、掛け算というシンセサイズ、そして分析するという意味の割り算=アナライズを自由自在に扱うこと。シンセサイズの反対語はアナライズで、この2つは対語になっています。つまり、四則計算(足し算、引き算、掛け算、割り算)で音作りの全てをカバーできるのです。そのコアの部分を勉強して、音を作る時どう計算して、どう分析すれば良いのか、という “計算と分析” を鍛えました。そこさえ押さえれば、どんな楽器が出てきたとしても、どんな音でも作れます。
シンセサイズとアナライズはいつもセットで、”分析” 出来ない音は合成出来ないのです。自分で合成するためには分析していないといけないのです。例えば、パスタを食べた時に何の素材を使ってどのように調理されたのか一瞬にして分かれば、その味を再現できますよね。つまり、理想の音を作るためには、音を聞いた時に “分析する” という耳のトレーニングを積み重ねるしかないのです。
僕の仕事では、言語でのオーダーを0から音にしなくてはいけないことも多くて、例えば”雲の上を歩いているような音を作って下さい”というオーダーが来た時に、今までの自分の引き出しから、分析(アナライズ)、合成(シンセサイズ)をして、まるで雲の上を歩いているような音を作る、という次の段階の仕事が出来るかどうかが試されます。」
一度日本からの仕事を全て切り、ニューヨークの音楽シーンへ切り込むことに集中した

ニューヨーク、タイムズスクエア。ブロードウェイの劇場が立ち並ぶ
──ヒロさんの経歴の話に戻りますが、ニューヨークに来たきっかけと、ブロードウェイで働くことになったきっかけは何でしたか?
「バークリー音楽大学卒業後は、スタンフォード大学の大学院でコンピュータリサーチを学ぼうかなと思っていたのですが、師匠からバークリーに残って電子音楽を教えないかとお話を頂き、卒業後は6年間、H1ビザでバークリーで講師をしていました。ある年に、IAJE(International Association for Jazz Education)という全米の音楽大学の講師たちによるユニオンでベストティーチャーとして表彰されたり、バークリーでも表彰されたことで、アメリカの高等教育に貢献してると評価を頂きアーティストグリーンカードが取れました。グリーンカード(アメリカの永住権)が取れたことで、バークリーを辞めてニューヨークへ行くことにしたのです。」
──何故ニューヨークに?
「ボストンにいる人の共通の悩みなのですが、ボストン自体には音楽産業がないのです。だから、ボストンから次のステップに行く時、ニューヨークに行くか、ロサンゼルスに行くか、ナッシュビルに行くかの三択になります。実はアメリカの音楽の最大拠点というのはカントリーの聖地であるナッシュビル。ですがナッシュビルはやはりアジア人にとっては行きづらいのと、カントリーミュージックは馴染みがないので日本人の留学生は大体ロサンゼルスかニューヨークに行きます。西海岸と東海岸で音楽的な種類のキャラクターが全然違うので、どちらを選ぶかは自分の方向性次第。僕の場合、ロサンゼルスはある程度年を取ってもいけるから、若いうちにニューヨークに行った方がいいという両親のアドバイスが響きました。
それで、ニューヨークに来ました。ニューヨークがミュージカルの中心地であるということは全く関係なく。その時はミュージカルをやるなんて考えてもいなかったし、97年にニューヨークに来て最初の11年間はミュージカルの音楽はおろか、ミュージカルの人脈もなく、周りにミュージカルをやってる人もいませんでした。」
──ニューヨークでの最初の11年間は何をされていたのでしょうか?
「バークリーを出て、フリーランスで頑張ろうとニューヨークに来たのですが、最初の1年は人と会って終わってしまいました。人に会って、さらに紹介されて、「シンセサイザーを使って音を作る技術があります」とアピールをして回っていたら、全く仕事もないのに退職金を全部使い果たして1年が過ぎていました。それから徐々に日本からのレコーディングの仕事が増えてきて、レコーディングや音作りの仕事はせっせとやっていました。90年代の当時は日本のレコード会社がニューヨークでレコーディングをしたり、日本のコマーシャルをニューヨークで撮ったりするのが流行っていた時代だったので、色々なアーティストの方と仕事をさせて頂きました。仕事があるのは有難かったですし、ニューヨークの音楽シーンに切り込みたいという気持ちを一旦横に置いて日本の仕事を中心にやっていました。
ただ、ある時に日本のアーティストの方に “日本人は所詮アメリカの音楽業界に入り込めないから、日本人で固まって仕事を融通し合って生きていかないとやっていけないんだ” と言われて。それを聞いて、この人たちと一緒にやっても一生先に進めないなと思い、全てのクライアントをお断りしました。ちなみに、その時に唯一切らずに残したのが矢野顕子さんでした。矢野さんは当時から人種関係なく矢野さんがボスとして音楽的な指示を出して、良いものを作ろうとするリハーサルをやっていて、この人すごいな、一緒にお仕事したいなと思い、仕事を続ける事にしました。今でもよくご一緒しています。
さて、日本からの仕事を全て切った後、アメリカのレコーディングやコマーシャルの仕事が入ってくるようになり、その中で一番大きかったのが、WWE(ワールドレスリングエンターテイメント)の音楽の仕事でした。そこからレスリングの音楽を作るフルタイムの仕事が入り、3年半近くコネチカットのスタンフォードに通って、仕事をしていました。
ただ、3年もコネチカットでやってると “ニューヨークにいない人” という感じになってきてしまっていて、これはまずいなと思ってた時に、”U2と一緒に仕事をしないか” という話が舞い込んできました。大御所のU2と一緒に仕事ができるならと惹かれ、レスリングの仕事を引き払いニューヨークに戻り、仕事を引き受けることにしました。それが、ブロードウェイミュージカル『スパイダーマン』の仕事だったのです。ここで初めてブロードウェイミュージカルと関わることになります。」
──ようやくブロードウェイの登場ですね!
「それが2008年の話なので、年齢は40歳になったくらい。当時、ミュージカルは見るのも嫌い….むしろ見た事もなくて、当然劇場に入るのも初めて。衣装とか照明などのプロダクションの人達とも初めましてで、劇場でどう動けば良いのかも全く分からず本当に手探りでした。カンパニーの誰も僕のことを知らない状態でスタートしました。」
──スパイダーマンのお仕事はどこからお声がかかったのでしょうか?
「現在ビジネスパートナーとして一緒に仕事をしているビリー・スタインです。当時、ミュージカル『ライオンキング』の演出を手がけたジュリー・テイモアが新しい作品を作ろうとした時に、”今までのブロードウェイを作ってきた人じゃなく、新しいチームでミュージカルを作りたい” という話になったそうで。音楽チームとして参加していたビリーは、別件のレコーディングで知り合った僕の仕事内容を覚えていてくれて、声をかけてくれた、という感じです。
まあそれがミュージカルの仕事だとは聞いてなくて(笑) 僕としては “U2と仕事が出来る” とビリーから聞いて、それならとプロレスの音楽制作を辞めてニューヨークに戻って来たら、それがまさかのミュージカルの仕事だったのです。」
ニューヨークは弱肉強食の野生の王国。島国の感覚を捨てないと世界を切り開けない

トニー賞で「ベスト・サウンドデザイン賞」を受賞した時。サウンドデザイナーのガレス・オーウェンと共に
──ニューヨークで挫折をしたことはありますか?
「”挫折感”はありますが、挫折をしたことはないかもしれません。最終的には別に死ぬわけでもないし、明日になったら終わっちゃうしみたいな気持ちがあるので。ただ、挫折感はもちろんあります。それは人種の問題とか、自分ではどうしようもないことも含まれています。悪気のあるなしは別として、演劇業界では “アジア人がここにいるわけがない” という偏見がまだあるのです。何度も技術スタッフとして通った劇場の入口で警備員に “関係者以外は入れないよ” と止められたり、”中華のフードデリバリーはそこに置いておいて” と言われたりするとか、そういう時にどうしようもない壁を感じます。
ただ、そこで挫折していてもしょうがないのです。実際、演劇界の関係者にアジア人は数えられるほどしかいないですし。結局偏見は変わらないから、彼らと友達になっていくしかない。フードデリバリーだと決めつけてきた警備員にも、僕はここで働いているんだよと説明して、名前を聞いて、朝はグッドモーニングと挨拶して、外に出る時は今からスタバ行くんだ、とかドーナツ買ってきたよとかコミュニケーションを取る…など、やれることは沢山ある。だからそこで挫折をするのは違うかなと思います。
『ニューヨークは弱肉強食の野生の王国』と僕はよく表現します。”声の大きい人” や “力の強い人” が勝ってしまう世界で、弱者は容赦なく叩き落されていきます。ニューヨークの地下鉄に乗ると分かりますが、目に入った10人全員の人種、教育レベル、バックグラウンド、宗教、経済力が違って、自分と同じ人間などほとんどいないのです。だから見当違いのことが毎日起きるし、違うことが当たり前なのです。
同じ人種、言語、宗教観の人々に囲まれた日本で生活して、日本の外を知らない日本人が、他人とも分かり合える共通点の多い日本の感覚のままアメリカに来ると、このギャップに潰されてしまう。だから標準をニューヨークに合わせて、人がどうかは関係なく、その中で自分は何者なのかということを伝えられることが大事になってきます。
人の違いは上下じゃなくて左右の違い。これを勘違いすると精神的に参ってしまいます。」
──”上下じゃなくて左右の違い”。日本にいると当たり前だと思うかもしれませんが、ニューヨークで揉まれた人には刺さる言葉ですね
「英語でも、”I can’t speak English” だと下に行ってしまっているけど、”I don’t speak English” で良いのです。日本語で育っているのだからネイティブより話せないのは当たり前だし、あなたが日本語を喋れないから英語で喋ってあげているんだよ、というメンタリティでいれば良いだけの話。だから、発音とかではなく “言っている内容” で勝負するべきだというのは、英語が共通言語として使われている国連総会のスピーチとかを見ていても思いますし、日々感じていることです。僕で言うと、英語がどうとか人種がどうとか気にするよりも、誰よりも良い音を作れば良いんだということ。そこに言語の壁から感じる挫折は必要なくて、僕が挫折していようと周りの人には関係ないし、自分で世界を切り開かなければいけないのです。」
──留学における心意気講座みたいになってきました。
「ですね(笑)、結局日本のような島国から世界に出ていくためには、周りを気にせずバッサリ切るという無神経さは必要だと思います。」
自分の代わりが沢山いるニューヨークでは、100点を出していても選ばれない。140点を出し続けるのが及第点

ミュージカル『スパイダーマン』の一場面 (Photo by Production)
──ヒロさんがニューヨークで高い評価を受けたことは何ですか?
「ミュージカルの世界でいうと、コンピューターを音源として楽器を弾くシステムを作ったことです。僕がミュージカル『スパイダーマン』でこの世界に入ってくるまでは、演出で音が欲しい時、楽器を買ってその楽器で音を作っていたのですが、スパイダーマンの制作予算がかかりすぎた背景もあり、長く公演をするためにはシンセサイザーで作った音を使ってコンピュータベースにして公演をしたい、だからそのシステムを作ってくれと言われたのです。
その頃までのブロードウェイの常識では、コンピューターの音を生演奏に組み合わせるのは不安定で怖いというイメージがありました。ミュージカル『スパイダーマン』はそこを覆して、全ての音源をコンピューターでリアルタイムで弾くというシステムを導入したのです。シンセサイザーという演奏することに特化したコンピューターを使って音を作り、その音楽をコンピューターで毎公演走らせる。そのシステムを初めて作ったのが僕です。
それから15年くらい経った今、コンピューターを使うのはブロードウェイだけじゃなくて世界のスタンダードになっています。ウエストエンドでも日本でも韓国でも、よっぽど特殊な演目でない限りこの方法で音を生み出しています。」
──この時から大きく評価が変わったなと思うきっかけはありましたか?
「レディオシティ・ミュージックホールで音作りをした時、劇場での音の響き方って小さなスタジオで作るものとこんなに違うのか、と気付いたのです。劇場で流れる音を作る為にはこんな音を作らないといけないんだ、と改めて自分の音を精査して、アナライズをして、劇場のための音作りを意識するようになりました。その頃から、色んな人に “いい音だね” とか “その音を使いたい” と褒められることが急激に増えた気がします。」
──技術を高めるためにやっていることはありますか?
「ひとつのショーの音が完成して、これでOKとなったら、必ずその日のうちに全ての音を聞き直します。そうでないと、完成した、という達成感と共に忘れてしまうからです。音の記憶があるうちに、数カ月もの間何が問題でどう修正してきたのかを検証するのです。それをやると、完成した音を作るためのディレクターとのやり取りや注文などのプロセスを振り返って、次の作品からそのプロセスを繰り返すことなく直ぐにこれができるように修正が出来るのです。これを完成直後の熱いうちにやるのがポイントです。
それをやると、その作品が再演になった時に記憶を引っ張り出しやすい。僕は、音が完成した作品でも再演の度、上演する土地ごとに音を作り直したり調整したりしています。ミュージカル『デスノート』は4度再演していますが、その度に違う音を使っているのです。通常、殆どの作品は再演でも同じ音を使います。既に完成されたデータだから、”これを使って下さい” と渡すだけで良いのです。ただ、それを僕は良しとせず、無駄だとしても一つ一つ全部見に行って、検証して、必要なら修正をします。演奏する人も劇場もその土地、その時によって違いますからね。」
──ヒロさんのそこが評価されているのでしょうね。他にこだわりや大切にしていることはありますか?
「140点を出し続けることです。こんな音を作って、と言われて、その音を発表する時に “いい音だったね” という評価じゃダメなのです。あらゆる分野で選び抜かれたプロフェッショナル集団の人たちがぐうの音も出ないくらいの音で “ねじ伏せる” ことをしないと生き残る道はない。更に言うと、そのねじ伏せた140点が及第点なのです。ニューヨークには140点を出せる人はいくらでもいるわけですから。だから100点を目指していると、100点の人たちと横並びになるだけ。そこをぶち抜く140点を出し続けることをスタンダードに持っていくこと。ボールが来たら10割打ち返すこと。これが僕のこだわりです。」
技術があるのは当たり前の世界で「選ばれる人」は、「仕事がやりやすい人」

ミュージカル『グレートギャッツビー』の初日プレミアのレッドカーペットにて
──技術の他に、ヒロさんが評価されている理由はどんなところでしょうか
「もう一つは、選ばれる人になることです。
人柄について少し話しておきます。これは今まで話してきたことと矛盾してしまうかもしれませんが、最終的なポイントは技術じゃなくてその人の人柄だと感じています。もちろん、技術があることが前提ですが。技術力で言ったら100点中140点出す人は沢山いますが、その中でAさんとBさん、どちらを選ぶかってなったときに、一緒にいて楽しい、仕事がやりやすい人が選ばれるのです。
仕事がやりやすいとか、ポジティブな人。”こういうことをしたいんだ” と言ったときに一瞬でも嫌な顔するか、いいねいいね、と賛同してくれるか、そういうほんのちょっとの差で仕事が来るか来ないかが分かれる。技術力もちろん必要で、オンブロードウェイの世界ではその技術も拮抗してるから、最終的にはその人のキャラクターで選ばれるのです。」
──「仕事がやりやすい」と思われるために気を付けていることはありますか?
「何かを頼まれた時、いいね、と一度引き受けること。その作業が “やっても無駄なのでは?” と思うことも多少なりともありますが、そういう時に面倒臭がらない、やる前から嫌な顔はしない、ということは気を付けています。その作業をすることで僕が失うものや、生まれるロスってほとんどなくて、やらないで時間を使うよりはやってみた方がよっぽど良い。駄目だったら駄目だったね~と笑って過ごせばいいわけで、そんなトライ&エラーの積み重ねで良いものが出来るので。また、日本人は感情が表情に出にくくて、何を考えているのか分からないと言われがちなので、喋り方や表情もポジティブであるように気を付けたりしています。
何より、そうやって一緒に失敗したりお願い事をし合ったりしている関係性の方が、僕もオファーをしやすいです。これはこれから挑戦したいと思っている人にも言えることです。僕が “この世界で成功したいんです” “ニューヨークでやりたいんです” と言う人にいつも言うのは、”とにかくニューヨークにいて、顔を見せろ” ということ。電話して10分で来るという人と、来週じゃないと来れないという人がいた時、絶対に電話して10分で来る人に頼むわけで。これは頼む側になるとより痛感するのですが、何か声がかかった時に、その日バイトがあってとか、来週まで時間がないとか、実は日本に帰る予定があってとか、それだと来たチャンスもつかめないですね。」
インタビュー前編はここまで
ここまで、ヒロさんの経歴や功績を紹介してきました。周りの人から『天才』と称されるヒロさんが、その才能に甘えることなく、ニューヨークという土地で140点の作品を作り続け、日々競争というプレッシャーと戦い、仕事仲間と気持ちの良いコミュニケーションを心がけ、大切な作品の “音作りを任せたい人” として評価をされてきた過程を聞いて、背筋が伸びた人も多いのではないでしょうか。
ヒロさんにもう少しお付き合い頂き、ブロードウェイの魅力とは?ブロードウェイで働く楽しさは?といったブロードウェイをより楽しめるような お話も伺いました。後編もぜひご拝読下さいませ。
ヒロ・イイダさんが音作りを手掛けたミュージカル
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