Samuel J. Friedman サミュエル・フリードマン劇場の詳細

ニューヨークの重要建築物に指定されたブロードウェイの劇場。火災での消失を乗り越え、昔と同じ姿で佇んでいます。

ブロードウェイミュージカルのサミュエル・J・フリードマン劇場

サミュエル・J・フリードマン劇場の基本情報

サミュエル・フリードマン・シアター(Samuel J. Friedman Theatre)の最寄駅、座席表などの基本情報です。

住所 :261 W 47th St, New York, NY 10036(地図
47ストリート沿い、ブロードウェイと8番街の間
創設 :1925年12月7日
収容人数 :650人
座席表 :※クリックして拡大できます
サミュエル・J・フリードマン劇場の座席表

サミュエル・J・フリードマン劇場の行き方・アクセス

サミュエル・J・フリードマン劇場への行き方は、ニューヨーク公共地下鉄(MTA)を利用するのが一般的です。
公演時間が近づくと劇場周辺は大変混み合いますので、地下鉄で行かれる方も、タクシーで行かれる方も時間に余裕を持ってお出かけください。

地下鉄の最寄駅 :

C E 路線の「50 St」駅から徒歩5分ほど

1 路線の「50 St」駅から徒歩8分ほど

N R W 路線の「49st」駅から徒歩5分ほど

サミュエル・J・フリードマン劇場の地図

以下は、サミュエル・J・フリードマン劇場(Samuel J. Friedman Theatre)の地図です。

サミュエル・J・フリードマン劇場の歴史

1925年にビルトモア劇場として創業

サミュエル・J・フリードマン劇場(Samuel J. Friedman Theatre)は、1925年、タイムズスクエアに位置する17個のブロードウェイ劇場を手掛けたハーバート・クラップ(Herbert J. Krapp)と興行主で不動産界のチャニン兄弟(Chanin Brothers)によって、「ビルトモア劇場(the Biltmore Theatre)」という名前で創設されました。
1929年になると、世界経済を揺るがした世界恐慌によりアメリカ社会は全体的大不況へと陥り、ブロードウェイもその影響を受けました。1930年に、アメリカ合衆国の連邦政府が、第二期ニューディール政策の一環で「連邦劇場計画(Federal Theatre Project)」を始めます。

この政策は、大不況により失業した芸術家の支援・救済計画の1つとして、劇場で行われている演劇やダンス公演に対して出資し、国民に安価な価格で提供するだけではなく、あわせて世界恐慌下で職のない劇作家・俳優・スタッフの雇用を目的とし、ビルトモア劇場もその政策の一環としてこの計画に加わりました。

ちなみに、ユダヤ人建築家チャニン兄弟は、ブロードウェイが流行し始めた20世紀始めにブロードウェイ内に6個の劇場を手掛けたことで知られています。

ワーナー・ブラザーズによる運営~テレビ局CBS「Studio No. 62」になるまで

世界恐々後の1936年、ビルトモア劇場はワーナー・ブラザース・エンターテイメントと舞台制作者ジョージ・アボット(George Abbott)に買収され、その後の15年で「Brother Rat」「What A Life」「My Sister Eileen」「Kiss and Tell」「The Heiress」などのショートコメディを主にミュージカル作品を公演をしていきました。

1951年になると、劇場の所有者ワーナー・ブラザースとジョージ・アボットは、約$27.5 万ドル(日本円=約740万円/当時1ドル=360円)でタイムズスクエアの開発業者として有名であったアービング・メイドマン(Irving Maidman)に売却しました。

メイドマンは、購入後の約10年間の間にて、ミュージカル公演ではなくアメリカ合衆国最大のテレビ・ラジオ・ネットワークを有する放送局CBSのテレビやラジオ放送のスタジオとして使用しました。スタジオとして使用されていた時期は「スタジオNo. 62」と名付けられ、約16にも及ぶネット回線のテレビ放送設備していました。

1960年、劇団プロデューサーのデイビッド・コーガン(David Cogan)がビルトモア劇場を購入したのをきっかけに、再びミュージカル作品の上映を開始しました。すると1963年初演のニール・サイモン(Neil Simon’s)の作品「裸足で散歩(Barefoot in the Park)」や、1968年初演のブロードウェイ・ミュージカル初となるロックミュージカル「ヘアー(Hair)」がヒットし、劇場としての存在を取り戻していきます。

この「ヘアー」は、ブロードウェイに初めてロックを持ち込んだ最初のミュージカルとして「ロック・ミュージカルの元祖」と呼ばれ、1969年のトニー賞ではトニー賞ミュージカル作品賞にノミネートしました。

1987年火災により営業停止になる

1986年、デイビッド・コーガンはビルトモア劇場をサミュエル・フェイファー(Samuel Pfeiffer)へ売却し、その翌年の1987年に、ビルトモア劇場のデザインがニューヨーク市デザインランドマークに選ばれます。

しかし、不運にもその1ヶ月後に、火災によりビルトモア劇場は焼損、水に晒された劇場は手の施しようのないほどの状態へと陥ってしまいました。その後の調査でも、犯人を見つけ出すことができず、何者かによる放火事件として、片付けられました。放火直前に公演されていたミュージカル作品「スターダスト(Stardust)」を最後に、ビルトモア劇場は運営を停止。2001年までの約14年間は使用されず、只々そこに佇んでいました。

火災後「マンハッタン・シアター・クラブ」が買収し立て直す

劇場を再興した劇団「マンハッタン・シアター・クラブ」

1925年建築後から14回に及び所有者が変わってきたこのビルトモア劇場は、2001年に現在の劇場所有者でもある劇団「マンハッタン・シアター・クラブ(Manhattan Theatre Club)」によって買取されました。マンハッタン・シアター・クラブは、1970年に設立した非営利団体として、より質の高い脚本を作品化して公演することに情熱を注いでいる団体です。

1970年からキャバレー(現:ナイトクラブ)の劇場などを借りて公演制作を行ってきたマンハッタン・シアター・クラブは、1980年代頃から団体自身の劇場が必要だと考えていました。どの劇場が劇団にとって最も良い最適な劇場かを約10年間にわたって探し求めた結果、火災で廃墟となっていた現在のサミュエル・J・フリードマン劇場を購入することに決めました。

その後、2001年に当時の劇場所有者との合意を得ることに成功し、マンハッタン・シアター・クラブにとって初の劇場購入が実現しました。また、マンハッタン・シアター・クラブは、救済の意味も込めてこの長年放火により放置されていたサミュエル・J・フリードマン劇場の購入を決めており、所有権獲得後すぐに、約$35億ドルを費やして劇場の改装を行いました。
劇場のデザインは、火災前にデザインランドマークに指定されたプロセニアム・アーチの舞台建築やアーチ型の天井と2階席は、当時のままの外見を復元する形で、火事で影響を受けた箇所のみ改装を行いました。座席数は650席に減らし、劇場内にはエレベーターや会議室の設置を完備し、2003年から生まれ変わった劇場として再オープンを実現しました。

2008年9月4日、マンハッタン・シアター・クラブ、ブロードウェイの広報担当であったサミュエル・J・フリードマン(Samuel J. Friedman)氏の功績を称え、「サミュエル・J・フリードマン劇場」と改名しました。

サミュエル・J・フリードマン劇場の建築スタイル

ハーバード・クラップが手掛けた欧風デザイン

ハーバート・クラップによってデザインされたビルトモア劇場の舞台は、プロセニアム・アーチ(Proscenium Arch)と呼ばれる建築方式が使用されました。プロセニアム・アーチは、舞台を一方向から見る「縁(ふち)」がある舞台で、舞台と客席の境界が区分されている建築様式です。

18世紀にイタリア式劇場としてヨーロッパで流行したのをきっかけに、現在では最も一般的な舞台形式として世界中で知られています。舞台の縁がアーチ型をしたプロセニアム・アーチは、遠近法を利用した舞台機構を実現し、袖に幕を吊るすことで舞台道具や照明を隠すことができ、観客の視線を舞台に集中させる質の良い舞台演出を可能とさせました。

代表的な建築として、フランスを代表するパリ国立オペラ(Opera national de Paris)やイタリアオペラ界の最高峰である歌劇場スカラ座(Teatro alla Scala)などが挙げられ、歴史ある建築様式として現在も存続されています。

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